2015年7月8日水曜日

『古代国家はいつ成立したか』(都出比呂志著、岩波新書2011)

・別のブログ「爺~じの読書日誌」に掲載した簡易要約版の代わりに詳細メモを掲載します。長いので箇条書きにしました

日本の古代国家成立以前の1000年くらいは本当のところどうだったんだろう?・・・・
国家がなくても、多分人々は共同体をつくって、日々の生業や子育てに励んでいただろう、これは世界共通だろう。しかし、国家ができてくるのにはそれなりの理由があるはず、またそのプロセスは?

はじめに
l  国家には、土地の分配、税、生産、経済、文化、共通の思想など、多面で複雑な仕組みが要求される。
l  国家の制度が試行錯誤される前段階を欧米の研究者は「初期国家」と名付けた。
l  著者は日本の初期国家は古墳時代に当たると提唱した。
l  本書は日本の古代国家形成における古墳時代の役割を、考古学に基づいて明らかにすることを意図している。小生の動機は、国家の発生に対する哲学的な問い。

第一章 弥生社会をどう見るか
1 環濠集落の時代
纒向遺跡の大型建物
l  2009年、奈良県桜井市の纒向遺跡で、三世紀前半の大規模な大型建物遺跡が見つかった。建物群は従来の弥生時代の大型建物とは一線を画すもの。
Ø  南北19.2メートル、東西6.2メートル。年代は3世紀前半、それまでの建物としては国内最大規模。ここには東西150メートル南北100メートルの屋敷地があった可能性がある。
Ø  測地術、設計力、厳格な規格を持った建築術が存在したことを推定させる。
²  建物の配置は東西に同一軸を持ち、建物同士とその周辺の柵等の方向性が揃えられている。一部の建物には高度な建築技術を伺わせる遺構がある。
²  柵の内側と外側に位置している建物の規模に差がある。
²  建物や柵などの一連の遺跡群は同時に作られ同時に廃棄されている。
l  卑弥呼の「宮室」の可能性があり、大王、天皇の宮の原型になった可能性は高い。
Ø  建物が破棄された後、ここは大規模な祭祀の場所であったと推定される。
²  大量の、しかも食用に適さない未成熟品の桃の種(桃は中国で祭祀に使われる)5
²  ミニチュア土器剣型木製品、黒漆塗りの弓、竹製籠等々が大量に、しかも殆ど壊された状態でかつそれぞれ部分的に出土した。

「魏志倭人伝」と邪馬台国
l  弥生時代の後期には、北部九州、吉備、出雲、畿内、東海、関東、に独立した政治権力が存在した。
l  「魏志倭人伝」は、この独立した地方権力が争いを始めて収拾がつかなくなり、二世紀末頃に共同で卑弥呼を擁立して戦いを収めた、と記述している(邪馬台国の誕生)。
l  卑弥呼が没し、王のために巨大な古墳が作られた。以降、権力者は巨大な墓、古墳を作るようになる。古墳時代(3世紀前半~6世紀末)の始まり。その後、7世紀初めから8世紀初めには、律令制がなじむように整えた時代と言える(飛鳥・白鳳時代)。そして710年の平城遷都に至り、成熟した日本古代律令制度国家が誕生する。
l  一般に「魏志倭人伝」と呼ばれているこの歴史書は、中国の人が邪馬台国の様子を見て記述したもの。地理的な位置、朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国までの道程、倭国にあった小国の名称、倭人の風習、卑弥呼が共立された経緯、邪馬台国の政治体制、卑弥呼の王としての生活、卑弥呼の外交、について記述されている。

吉野ヶ里遺跡と池上曽根遺跡
l  1989年に発見された吉野ヶ里遺跡は、弥生時代中期の巨大集落遺跡で、40ヘクタール程の広さの集落内に大型建物、望楼、倉庫群、と墳丘墓があり、集落は二重の環濠に囲まれている。「魏志倭人伝」の伝える卑弥呼の居館のイメージを彷彿とさせる(著者は、後述のようにここは卑弥呼の居館ではあり得ないと考えている)。
l  1995年に発見された大阪府池上曽根遺跡は弥生時代中期後半の遺跡で、広さ10ヘクタールの大きな環濠集落の中心部に、高床式の大型建物などが発見された。発掘された大型建物の柱は、その年輪から紀元前52年に伐採されたものと判明した。この遺跡も「邪馬台国」ではないかと期待された(著者は、後述のようにここは邪馬台国ではないと考えている)。
l  吉野ヶ里遺跡も池上曽根遺跡も、共に弥生時代中期から集落の人口が増え、巨大な環濠集落を形成したという点で共通する(しかし後述されるように、考古学的証拠に基づいた推定から、これらは邪馬台国ではなく卑弥呼の居館でもない、と著者は考えている)。
l  弥生時代は紀元前1000年から紀元後240年までの1200年間を指し、早期、前期、中期、後期、終末期、に分けられる(詳細は別表参照)。始まりはここ数年で500年ほど遡った。500年ほど遡った理由は、AMS法[1]で科学的年代測定が可能になったから。

環濠集落の盛行する時代
l  弥生時代の大きな集落は、直径100から200メートル程度の円形状の集落で、多くの場合は周りに濠を巡らしている。これを環濠集落と呼ぶ。そこにはリーダーと共に一般農民も住んでいた。
l  環濠集落は弥生時代前期から出現するがその源流は中国にある。BC4000頃の中国新石器時代の仰韶文化の西安半坡遺跡や姜寨遺跡には、環濠集落がある。そこでは粟作や稲作も行っていた。
l  紀元前8~6世紀頃の韓国の無文土器文化時代に環濠集落がある(松菊里遺跡、検丹里遺跡)。この文化は粟作や稲作も行っていて、BC4000年頃の中国新石器時代の仰韶文化の影響を受けている。また、日本の弥生時代前期の福岡県板付12式と並行しているから、弥生文化に影響を与えている。
l  環濠集落の出現は、日本列島でも争いが始まったこと物語っている。弥生時代前期の環濠集落の大きさはまだ直径50メートル、広さ1ヘクタールほどで、人口もせいぜい50人くらいと推定される。
Ø  縄文時代晩期より、朝鮮半島から、日本人の体格を変えるほどの多くの人々が日本列島に渡来し、水耕農耕や生活習慣を伝えて弥生時代が始まった。
Ø  弥生時代に入ると、縄文時代の遺跡にはない、石剣の刺さった人骨も爆発的に増加する。環濠集落の濠の構造は、集落の平和を脅かす人間への防衛用と推定される。

巨大環濠集落は「国邑」
l  弥生時代中期になると、環濠集落の数が増加し面積も拡大する。畿内では、2から3ヘクタールの集落が、およそ5キロメートルの間隔で点々と分布している。
l  複数の環濠集落を統括するセンター的集落、巨大環濠集落が出現する。紀元前400年頃の奈良県唐古・鍵遺跡(直径300メートル、広さ35ヘクタール)、吉野ヶ里遺跡、池上曽根遺跡もセンター的集落と考えられる。
l  長崎県原の辻遺跡は壱岐の島のセンター的集落だが、「魏志倭人伝」に壱岐国と書かれているので注目される。「魏志倭人伝」に記載されている「国邑」とは、城壁に囲まれた大きな集落のことだが、センター的集落のことだと推定される(西島定生)。
l  従って「魏志倭人伝」に記載されている「国邑」とは、卑弥呼の邪馬台国のことではなく、丁度「漢書」に記載されている「分かれて百余国」にあたるものだろう[2]

環濠集落の内部
l  巨大環濠集落の中心地区には大型の平地式建物や高床式建物がある。平地式建物は、居住面を地面より下に置く竪穴住居と異なり、堀立柱を立てて、床を地面より少し高くし手ある建物でリーダーの住居、高床式建物は神殿か倉庫と考えられる。池上曽根遺跡や兵庫県加茂遺跡では、中心地区は柵列で囲われている。
Ø  著者はリーダーと首長を区別している。首長はヒエラルヒー構造の中で権力を持った指導者を指す言葉として用いる。そのような権力者は弥生時代終末期以降において現れてくる。
Ø  神殿は宗教施設兼政治の場。奈良県の唐古・鍵遺跡では、高床式建物の絵を描いた土器片が見つかったが、この絵が荘厳な感じを持っているので、神殿を描いたものと理解されている。
l  巨大環濠集落内で、柵列構成している内部の外には工房地区や物流中継基地がある。
Ø  工房地区からは青銅器やガラス製品の鋳型や金属滓などが発見され、高度な技術が覗える。
Ø  例えば池上曽根遺跡では、和歌山県産の石材と、この石材で作られた石包丁はその半製品が多数発見された。
l  環濠集落の中心地区の周辺に、竪穴住居が非常に多く集まった状態で発見される。これは一般農民住居と推定されている。
Ø  リーダーと一般農民は同じ環濠集落内に住んでいた(当地の内容を判断する材料の一つと考えられている)。
l  環濠集落の人口の推定。
Ø  中規模の環濠集落の例である横浜市大塚遺跡には2ヘクタールあまりの広さに、同時に存在した竪穴住居が30棟ほどあった。住居の広さから推定すると一棟当たり5人くらいなので、全部で150人くらいだろう。
Ø  巨大環濠集落である池上曽根遺跡は、10ヘクタール程だが、中心地区や工房地区等の広さを除くと人口は500人を超えないと推定されている。
Ø  集落の総面積に占める中心地域の面積の割合は、環濠集落の規模が大きくなるほど増えてくる(注:これも統治・権力が発生していく様子を示しているのかも)。

都市的要素の萌芽
l  巨大環濠集落は都市とは区別されると著者はいう(注:この区別は、権力、統治の発生の発生を判断するためのポイントと考えているようだが、あまり明確には語られていない)。
l  著者は、都市を以下のように定義している。
①.    首都の政治センター機能と、門前町などの宗教センター機能と、港町などの経済センターきのうを併せ持ち
②.    王や役人、神官や僧侶、手工業者や商人など、農民以外の多数の人が住みつき
③.    人口が極度に密集した結果、近隣の資源だけでは自給自足できなくなり、食糧や生活の必需物資を外部の遠隔地に依存する社会

環濠集落誕生の背景
l  巨大環濠集落は日本列島以外にも世界に広く存在する。それらは、中央権力が成立する前段階において、緊張の高まりの中で生まれた特殊な集落と理解される。
Ø  中国湖北省で紀元前2000年くらいに出現した石家河遺跡。広さは数十ヘクタールで高い城壁に囲まれている。ここは直後の紀元前1500年程前に城郭都市殷が出現した所。
Ø  欧州で紀元前6~2,3世紀ころに出現した丘陵城塞(=ヒルフォート)。広さや機能や構造や農民以外の比率も弥生時代の環濠集落よく似ている。
l  著者は、政治統一を前に、集団間の争いが烈しい時期に出現する、世界各地に共通する環濠集落を、農村と都市の間に位置する集落として「城塞集落」と呼ぶ。

中国の城郭都市の影響は?
l  「城塞集落」は、渡来人を通じて中国の城郭都市の影響を受けてはいたが、「都市」までには至っていなかった。
Ø  中国では、弥生時代に交流があった漢代よりずっと古いBC1500ころの殷の時代には、既に城郭都市が存在した。殷の城郭都市は、王の住む内部と住民や商工業者の住む外部とから成る二重構造を持っていた。
Ø  福岡県須玖岡本遺跡では、弥生時代中期の墓から漢の遺物が出土した。池上曽根遺跡の建物群の配置は、中国古代の建築思想に基づいている。
Ø  環濠集落が城郭都市に至らずに、城塞集落に留まった理由にはいくつか考えられる。指導者が「リーダー」の段階だった、経済センター機能が不十分、生活必需品を近郊の耕作地で自給できる状況(需要がその程度)であった、など。
Ø  しかし、広瀬和雄は「環濠集落」を「都市」であると主張する。その理由は、弥生時代の中期にはすでに権力が生まれていたと考え、「都市」に藤田弘夫が言うように「都市は巨大な権力が目的を遂行していく上で拠点となる大規模な施設が必要だと判断したときに建設される」と考えているからである(小生意見:両者とも権力が発生しいるのかどうかを問題にしているのなら、藤田弘夫の考えを環濠集落に適用して、そこに権力が存在し従って都市であると確信する根拠は何だろうか?一般化すれば、考古学において人々の内的認識の根拠を問うにはどうやるのだろうか、著者は後述するようにそれをやっているように思えるが。)

世界各地の城塞集落
l  世界各地(西アジア、地中海、ギリシャ、イギリス、北アメリカ、中南米)で城塞集落が出現している。何れも、その地域における新石器時代である(著者の記述によれば新石器時代は権力の発生以前の生産経済時代を意味する)。


リーダーの居館と墓
l  弥生時代末期から古墳時代初めにかけて、リーダー、首長の居館が独立し、墓も共同墓地から独立し、環濠集落が解体していった。同時に、残された一般農民は分散して村をつくる。この変化は大きな社会的な変動を示唆している。
Ø  巨大環濠集落は弥生時代中期中頃に登場し、多くの場合、中期末には衰退する(例外的に後期末まで存続するのは唐古・鍵遺跡)。
Ø  巨大環濠集落同士がブロックを形成してくると、首長は巨大環濠集落を出て、濠や柵列で囲まれた居館を構えるようになる。滋賀県伊勢遺跡や下鈎遺跡は弥生時代後期に登場した首長居館。古墳時代には、首長の居館は環濠集落から独立する。
Ø  弥生時代中期から終末期にかけて、リーダーの墓が共同墓地から分かれて独立し始める。
Ø  共同墓地に留まり、住民の墓と共存していても、弥生時代中期からは、リーダーの墓には特に立派な副葬品供えられ、盛り土も大きくなる。
Ø  弥生時代中期末には、リーダーの墓は共同墓地を離れて築かれるようになる。
Ø  弥生時代終末期には、一部の墓は丘陵の高みに独立して築かれ始める。
l  従って、「魏志倭人伝」が「宮室、楼観、城柵」そして「邸閣」と描く卑弥呼の居館とは、王と民衆とがともに住む弥生時代中期の巨大環濠集落ではなく、大規模な首長居館と考えるのが妥当。

2 倭国の乱
卑弥呼の登場前夜の乱
l  「魏志倭人伝」の有名な記述「その国、もと男子をもって王となし、住まること七,八十年、倭国が乱れ、たがいに攻伐すること暦年、そこで(有力首長たちが)共に女子を立てて王とした。卑弥呼という名である」。
l  「後漢書」[3]の「桓・霊の間、倭国大いに乱れ」
l  考古学的検証の試み。もしそれが出来ると、日本列島の政治状況の見方を左右し、邪馬台国の特定が可能となるかもしれない。

弥生時代初期からあった争い
l  これを示す考古学的証拠は沢山ある
Ø  武器の出土数は弥生時代中期から急増する
Ø  弥生時代中期になると、石鏃、銅鏃、鉄鏃の大きさが、縄文時代の石鏃より大きくなる。その大きさは人の殺傷に適したくらいとなる。
Ø  弥生時代に生まれた打製短剣、鉄の剣も中期に著しく増大する。
Ø  縄文時代には矢の刺さった人骨は殆ど見られなかったが、弥生時代になると初期から見られるようになる。
Ø  武器で損傷した人骨の出土例は、北部九州では、紀元前800年から前200年頃に特に多い(このような状況が、この地域は他に比べて早く出現した)。
l  弥生時代には、北部九州と畿内とでは、稲作開始時期や墓の形式など、多くの違いが指摘されている。
l  寺前直人氏の面白い説。弥生時代における北部九州と畿内という二つの社会の特質の相違点について、従来とは異なった視点から言及している。それは、北部九州から日本海沿いの地域では階層化を押し進めた武器体系を持ち、畿内では階層化を押しとどめた武器体系を持っていた、というものである。
Ø  墓の埋葬品としての武器出土状況の相違からの推定されている。墓の階層区分に対して、埋葬武器の差別がどの程度重要視されていたかという判断に依っている。
Ø  北九州系社会では、武器の所有が階層の高さを示している。弥生時代中期から後期には、階層の高い墓にだけ金属製武器が必ず埋葬されている。
Ø  畿内系社会では、武器の所有が高い階層を示さず、農耕社会において生じた利害の調整は武器である石棒を用いた儀礼によって行っていた。弥生時代中期に石製短剣が沢山生産され、それが一般農民の墓に副葬される傾向がある。北九州系社会ではそのようなことはない。また、弥生時代後期には石製短剣の副葬は激減するが、それに代わって金属製短剣の副葬は増えず、武器は弥生時代終末期まで殆ど埋葬されない。

高地性集落の出現
l  センター集落と、それを構成する環濠集落が一つの政治単位となって、弥生時代中期の「国」を形成していた。その広さは現代の「市」くらいであろう。
l  北部九州の「奴国」は、考古学的にも「国」を形成していたと言える。
Ø  墓の規模が他のセンター集落の墓より大きく副葬品も立派。
Ø  センター集落の周りの環濠集落も、他の地域のそれに比べて立派
Ø  中国の王から倭の奴国に「金印」が授けられた(「後漢書」記載の「金印」と同一らしい。「BC57年説」もあり)
l  「国」と「国」同士で、耕作地や水を巡って、また中国の王との交易権を巡って争いが起こり、複数の「国」が政治的なブロックを形成したらしい。「国」のリーダーの墓から、中国製の鏡、壁、ガラス類(高度な技術を要する)が多く出土
l  瀬戸内海沿岸や畿内では、北部九州より遅れて戦いが始まり、弥生時代中期にはその激しさが増す
Ø  青銅短剣が刺さった人骨の出土(弥生時代中期の神戸市玉津田中遺跡)
Ø  弥生時代中期後半には、戦闘目的の大型で重い石鏃、石剣が大量に出土。青銅や鉄製はまだ少ない
Ø  滋賀県下之郷遺跡では、折れた青銅短剣や石鏃が、環濠集落の入り口付近では特に多く出土した(リアル!)
l  高地性集落が出現してくる。これは戦いが激しさを増し、「国」同士の連携も必要になって来たことを示唆している。弥生時代中期に山城として出現する高地性集落は、居住地域とは異なった、展望が利き、交通の要所である場所である高台に出現すし、ノロシの跡らしき穴もある。香川県、岡山県、奈良県、大阪府、更に新潟県、石川県でも出現。

弥生中期の争いの性格
l  前期は、河川や丘陵で分断されていない小さな纏まりの形成過程での争い。
l  続いて、中期には「国」形成過程での争いが始まる。「漢書」で「百余国」分かれていた「国」同士の争い。
l  続いて、複数の「国」が纏る過程での争い。その結果、北部九州、瀬戸内海東部沿岸、出雲、畿内、東海、関東、に「国」のブロックが形成されてくる。戦いはこのブロック内に留まっている。
Ø  北部九州、瀬戸内海東部沿岸、出雲、畿内、東海、関東のブロック毎に、石鏃に特徴がある(大きさ、厚さ、形、成形、材質など)
Ø  石鏃の材料の石は、同じ名称(サヌカイトや黒曜石)でも産地で石質が異なるから、出土した石鏃の原料生産地がわかる
Ø  別のブロックで作られた石鏃は混じって出土しない(佐原真氏の発見)
²  佐原真のデータから、松本武彦は、弥生時代中期の争いはブロック内部での争いと推定した。

青銅祭器の分布圏
l  弥生中期に形成された政治ブロック同士の関係を知る上で、祭器の分布圏のあり方は重要な示唆を与える
Ø  祭器の分布圏のありかたは、北部九州、瀬戸内海東部沿岸、出雲、畿内、東海、関東のブロック同士の関係を知る上で、重要な示唆を与える。
²  北部九州では、銅矛と銅戈
²  瀬戸内海東部沿岸では、平形銅剣
²  畿内と東海では、銅鐸
²  出雲地方では、中細型銅剣
²  関東では、方角石器
Ø  武器形祭器は実用ではなく、呪具。
²  戦いを象徴するもの
²  戦いによって領地を拡大してくれた先祖や英雄をたたえ、集団の繁栄を祈る
Ø  銅鐸の絵画は英雄の伝説や祖先の神話が語られている。農耕神話、船団を繰り出して領土拡大に活躍。
Ø  祭器を共有するブロック内集団には共通する意識があったと考えられる
²  遠い祖先が共通するという信仰
²  いざというときに結束する仲間意識(注:チョット突っ込みがたらないと思う)
Ø  戦闘器、祭器、埋蔵様式の分布を調べることで、弥生時代中期には、北部九州、瀬戸内海東部沿岸、出雲、畿内、東海、関東に、政治的に独立したブロックが生まれていたことがわかる。
Ø  出雲は北部九州と畿内の二つの勢力の間でキャスティングボートを握る力を持っていたと推定される
²  1996年に、弥生時代中期の島根県加茂岩倉遺跡から畿内と東海の祭祀である銅鐸が出土し、近くの荒神遺跡では、銅鐸と北部九州の祭祀である銅矛が一括して埋納されていた

二世紀末の地域割拠と広域動乱
l  「魏志倭人伝」の伝える、卑弥呼が立つ前の2世紀初めから後半の動乱の様子から、ブロック内の纏まりを図りつつ勢力を拡大するにつれて、ブロック間の争い、広域動乱となっていく様子が覗える
Ø  祭器などの分布から見ると、弥生時代中期頃と比べて各ブロックが勢力範囲を広げた。また、各集団の一体感を図る新しい宗教が登場したことが覗える。
²  北部九州では広形銅矛が使われて、その勢力は四国西南部まで広がっている
²  畿内勢力では銅鐸が大型化し、和歌山県南部や四国東南部にまで伸びている
²  東海では銅鐸祭祀が弥生中期から継続されている
²  吉備と出雲では青銅祭器に代わり、大きな墳丘墓の築造が盛んになる
Ø  弥生時代中期に多く生まれた高地性集落が、後期に激増する。
²  見通しの利く高地の集落遺跡の例、大分県白岩遺跡
²  海上交通の要所の遺跡例、瀬戸内海沿岸の山口県吹越遺跡、兵庫県塩壺遺跡
²  内陸交通の要所の遺跡例、淀川水系の高地性集落高地性集落
²  情報伝達手段としてノロシを利用したことが覗える
l  大阪湾北岸の会下の山集落例
l  ノロシの実験結果から、情報伝達速度は時速30kmくらいと予測され

鉄の供給ルートをめぐる覇権争い
l  二世紀の倭国の乱は鉄の供給ルートを巡るものであったと考えられている。鉄の普及は一世紀代までは北部九州の「ツクシ政権」が先進地域であった。山尾幸久の有力な説によれば、「ヤマト政権」が「ツクシ政権」を支配下に置いてその供給ルートを掌握したと考えられる。
Ø  「ツクシ政権」は後漢の庇護を受けており、後漢王朝は鉄を産出する朝鮮半島の楽浪郡を支配下に置いていた
Ø  後漢王朝が二世紀末に弱体化したが、このときに「ヤマト政権」が「ツクシ政権」を制圧し、鉄の供給ルートを掌握した
l  二世紀末には日本列島主要部において石器が急速に消滅し鉄器が普及した。これは、畿内勢力が北部九州勢力に代わり鉄の供給ルートを掌握したからであろう。
l  (畿内勢力である「ヤマト政権」の)邪馬台国は、次第に日本列島西部に勢力圏を広げ、三世紀前半には北部九州の勢力を包囲する程になっていたらしい。
Ø  「魏志倭人伝」の記述、「(伊都国には)世々(代々)王がいるが、みな女王国に統属(従う)」によれば、九州の「伊都国」は卑弥呼が共立される前に邪馬台国の支配下にあったことになる
Ø  「奴国」は弥生時代中期までは北部九州にあったが弥生時代後期になると、「伊都国」(福岡市付近)は「奴国」(旧前原市付近)と対等になっているらしい。
²  志賀島から金印が出土している。「漢委奴國王」と刻された金印。後漢書の記載と同一と考えられている
²  「奴国」は他の国より面積が広く、リーダーの墓も大きく、副葬品も立派
²  弥生時代後期になると「伊都国」の墓や副葬品も「奴国」と肩を並べる
Ø  高倉洋彰は、三世紀前半には「奴国」を周辺から圧迫するような、「邪馬台国」の力がおよんだ包囲網とでもいうべきものがあったと推測している。
²  畿内周辺の土器が北九州北部に流入していく
²  畿内のリーダーの埋葬形式である木棺や直葬が普及する
l  それまでの北部北九州では甕棺に葬られている。
l  これらの文化の流入時期は瀬戸内海に面した大分県等の東九州や伊都国周辺の西九州では早く、奴国近くの北九州東部では遅れている。
Ø  王の墓に使用された埴輪の形式を調べることで、大和で王権が誕生した背景には、東国との連繋があったとする人(高橋克壽)もいる。

卑弥呼共立以後の争い
l  「魏志倭人伝」は邪馬台国が「狗奴国」と争っていたと伝えている。その狗奴国は東海にあったと言う説がある(著者も賛成)。
Ø  「魏志倭人伝」の地図の、南を東と読み替える説に従うと整合性がある。
Ø  二世紀末の墳墓の形式が畿内と東海では異なっているので、この二つの集団は別の絆で結ばれていたと考えられる。
²  高地性集落の増加傾向から、西日本で二世紀前半から中頃に起きた政治的緊張が、一歩遅れて二世紀後半になってから東の地域にも波及したと推測できる。これが、卑弥呼あるいは卑弥呼亡き後の邪馬台国と狗奴国の戦いであろう。
l  弥生時代の争いや戦争は大きく四段階に分けることが出来る。
Ø  第一段階。弥生時代早期から前期頃のもので、山や川など地理的な条件で区切られた小地域内で、水や土地の分配を巡る争い。
Ø  第二段階。弥生時代中期のもので、小さな「国」を築く過程の争い及び、それに続いてこの小さな「国」をさらに大きなブロックに統合する動乱。
Ø  第三段階。弥生時代後期のもので、西日本全体を巻き込んで戦いが続き決着がつかなかった段階。「魏志倭人伝」の伝える「倭国乱」から卑弥呼を共立して戦いを収めた動乱。
Ø  第四段階。三世紀代中頃のもので、卑弥呼の跡を継いだ壱与の時代。狗奴国を巻き込んで東日本にまで波及した動乱。

3 前方後円墳の源流
前方後円墳とは
l  卑弥呼が亡くなり葬られた前方後円墳[4]は、世界的にも例のない特異な形をしている。特異な形の由来には諸説あるが、著者は、弥生時代中期以降にリーダーの墳墓が独立して築かれ始めた後、その形状が変遷していった結果と考えられている(注:そのことを追跡していくと、当時の政治社会の変遷も見えてくる)。
Ø  前方後円墳という名前は、江戸時代の尊王論者蒲生君平が唱えた中国皇帝の「宮車」を模したもの、と言う説に由来する。この説は時代考証他から没。
Ø  前方後円墳の形状が中国の墳墓に由来するという説は、形状の相違などで否定されている。朝鮮由来と言う説は、これまでに発見されている朝鮮の前方後円墳は六世紀前半のものなので否定されている。

北部九州の墳丘墓
l  北部九州では、他の地域よりも早く、弥生時代前期からリーダー一族が共同墓地から独立して葬られたことがわかってきた。墓の形式は、低い方形墓で「低墳丘墓」と言う。
Ø  吉野ヶ里遺跡で隅円長方形の大きな墳丘墓が見つかり、甕棺の中に武器が副葬されていた。一般農民の甕棺は普通の地面に埋められている。

畿内の墳丘墓
l  畿内でも墳丘墓は方形。弥生時代中期には、リーダー一族の墓にも格差が生まれていた。
Ø  畿内では一般に方丘墓が多数集合して、リーダー一族の墓域を形成している。
Ø  弥生時代中期の大阪の瓜生堂遺跡、大阪府加美遺跡の例からその明細が分かる
²  一つの墓には同族(家族?)を合葬した。
²  (リーダー一族の墓域にある墓の間には規模の差があるが)リーダー間の墓の規模や埋葬状況にも差がある。
l  弥生時代後期になると円丘墓も出現しはじめた。円丘墓は西から東に向かって広まったが、これは瀬戸内の吉備の影響と推定される。
Ø  吉備には弥生時代最大の墳墓がある(楯築遺跡(たてつき)の円丘墓。三世紀)。
²  その埋葬祭式に用いられた土器の形式と文様は高度に形式化されている。この土器は埴輪の起源となるものである(近藤義郎氏、春成秀爾氏)。
²  楯築遺跡の円丘墓の埋葬祭式は、卑弥呼の館と推定される纒向遺跡にも、卑弥呼の墓と推定される箸墓祭式にも影響を与えている。

日本海沿岸の墳丘墓
l  弥生時代後期において、島根県西部から富山県までの日本海沿岸のリーダー達は、四隅突出墓という特色ある墳丘墓を発達させた。
l  四隅突出墓の形の由来は、朝鮮半島北部にはこれと似たものがあるのでその影響という説もあるが、著者は日本列島独自に歴史的変遷を経て出来たものと考えている。
Ø  これらの墳墓も北部九州や畿内と同じくリーダーの同族墓である。
Ø  それ以前の弥生時代中期から倭の各地に四隅に突起のある方形墓が存在した。
Ø  弥生時代中期に、方形墳丘墓の周溝の四隅を掘り残して陸橋とした墓があり、この陸橋部分にはしばしば壺や高坏など祭祀用土器が置かれている。
Ø  四隅に陸橋を持つ墓は、弥生時代中期後半以降に東海や関東でも流行しているので、この陸橋の堀残しは特別なことではない。
Ø  この堀残しは、遺されたひとびとが亡くなった人と食事を共にして、別れの儀式を行う葬送儀式の場であったと想像できる。「このように考えると、この陸橋は墳丘と外界との架け橋であり、同時に死者との別れの場になっていたと私(著者)は思います。」
Ø  この陸橋が退化、形式化して四隅に突起がある墳墓となった後、再びこの突起が大きくなり、日本海沿岸では四隅突出墓となった。
²  弥生時代中期の京都府の舞鶴市志高遺跡の張り石墓は四隅の陸橋が退化して三角形になっている
²  弥生時代中期の広島県三次市の宗祐池遺跡では墳墓の四隅に小さな三角形の突起を持っている
²  弥生時代中期の日本海沿岸でも四隅に小さな三角形の突起を持っている墳墓をもつ首長墓が見られるが、後期後半の島根県仲仙寺遺跡ではこの突出部がタテヨコ共に大きくなる

瀬戸内海沿岸の墳丘墓
l  弥生時代前期の方丘墓は畿内を中心に普及したが、円丘墓は瀬戸内海東部沿岸地域(岡山県、兵庫県、香川県)で発達した。
l  弥生時代後期末になると円丘墓は大型化すると共に、四隅突出墓と共通する由来を持つと思われる突出部も付け加わり、祭式にも変化が現れるが、それらは前方後円墳との強い繋がりを推定させる。
Ø  三世紀の岡山県の楯築遺跡にある墳丘墓はその典型的事例である
²  共同墓地から隔絶して丘陵の上に単独で築かれている
²  円丘墓の両端に突起部を持つ
²  当時最大規模の墳墓。直径43メートル、高さ5メートル、両端に突起部を持ち、突起部を併せると全長80メートル。
²  墓の斜面に石を貼り付け、祭祀用に特別に作った壺と器台の大型土器を墓の上と斜面にぎっしり並べている。
²  墓の中央には木槨(棺を納めるための木製の小さな部屋)の中に納められた木棺があり、木棺の底一面に大量の朱がまかれ、棺の内部に鉄の短剣と装身具が副葬されている。
Ø  三世紀の兵庫県赤穂市の有年原田(うねはらだ)遺跡の墳丘墓は、その突起が示唆に富んでいる
²  二方向突起が明確に分かる
²  突起の形が、発達した四隅突出墓の突起とよく似ている
Ø  弥生時代後期前半の香川県高松市の林・坊城遺跡の円丘墓は、祭式が墳墓の形の源泉であることを窺わせる事例である。
²  円丘墓の周溝の二カ所を堀残して陸橋にしたものがある

前方後円墳と前方後方墳の原形の登場
l  三世紀の初め、楯築墳丘墓より少し下った時代に、前方後円墳の原形が現れる。西日本から東日本まで広く分布し、大和が発祥の地であった可能性は高い。
Ø  原形と言えるのは、主として外見と埋葬形式について類似しているから。
Ø  円丘に一つだけ突起がついた形と円丘の中央に石室や木棺が納められている。
Ø  纒向遺跡の墳丘墓の形式が各地に及んだ(寺沢薫氏)。
Ø  大和の影響力が各地に及んでいたから発祥地が大和と考えられる(著者)。
l  同じ頃、前方後方墳の原形が現れる。畿内から東海地方や関東にも広がっている。
Ø  原形と言えるのは、主として外見と埋葬形式について類似しているから。
Ø  方丘に一つだけ突起がついた形(突起が二つのもあるが)と、千葉県高部墓(30号、32号)は前方部に当たる方丘部に銅鏡が埋められていた。

円丘墓系と方丘墓系のせめぎ合い
l  墓形の共通性は集団を区分する有効な方法であり、この視点から見ると、この時代(弥生時代後期から終末期)には、北部九州、瀬戸内海東部沿岸、出雲から北陸、畿内、日本海沿岸、東海、関東の各内部は緩やかな同盟関係にあった。
Ø  墳墓は祖先祭祀のためのものだから、墓の形や埋葬施設の形式には集団の伝統が保守的に継続されやすく、従って祖先との繋がりを確認するシンボルとなり、また同じ墓形を持つ集団との連帯のシンボルとなったと考えることが出来る(注:現代の先進国に置き換えてみると、このようなシンボルに当たるものは何だろうか?まさか墓形ではあるまい)。
Ø  墓形の共通性に基づいた集団の区分は、祭器の共通性に見られる集団や石鏃が示す勢力範囲との深い関係が窺われる。
l  墓形の発祥地と墓形の共通性、異なる墓形の同一地域での存在なども、当時の社会を知る上で興味のあることだ。
Ø  前方後方墳原形が多数を占める千葉県に、三世紀前半において前方後円墳原形(市原市神門墓)が共存している。これは、西日本の首長と友好関係にある首長が関東に居たことを意味する。
Ø  三世紀前半、後方墳原形が東海で盛行する。赤塚次郎氏は、このことは東海地域が狗奴国の勢力圏であることを意味していると考えている。
²  後方墳原形は畿内にもあるから狗奴国のみのシンボルとは言えないが、他の状況も考慮すると、狗奴国の首長たちが後方墳原形を採用して結束を固めたことは確かだろう(著者)。
Ø  以上を総合的に考えると、前方後円墳が邪馬台国に結集する首長たちのシンボルであるなら、三世紀前半に南関東地方の首長たちに対して、邪馬台国狗奴国の両者の友好の誘いかけが既に進行していたことを示す。

第二章 卑弥呼とその時代
1 邪馬台国の誕生
大人・下戸・生口
l  「魏志倭人伝」の記述から、邪馬台国には階層関係があり、法による裁きと刑の執行があり、非自由民が存在したことがわかる。

租税と役人
l  「魏志倭人伝」の記述から、邪馬台国には、租税制度、市場や流通管理機関、地方監督官、が存在したことがわかる。また、伊都国や奴国などの諸国には「(大)官と副官」という二人の統率者がいたことも記されている。

女王と摂政と外交官
l  「魏志倭人伝」の記述から、「卑弥呼」はシャーマン的能力を持つが、卑弥呼の力を借りながら現実の政治権力を行使する男弟がいた。推古天皇と摂政の聖徳太子の関係に似ている。
l  「魏志倭人伝」の記述から、卑弥呼は魏王朝と交流し、大使の他に流通を司る役人(西村敬三氏、吉田孝氏)を派遣[5]したことがわかる。
l  「魏志倭人伝」の記述から、卑弥呼が住んで政務を執る宮殿(「宮室」)と、望楼(「楼閣」)があり、そのまわりには防衛のための柵列が巡らされ、兵士が終日護衛していたことがわかる。

邪馬台国九州説
l  「魏志倭人伝」の記述に従うと、朝鮮半島から伊都国に到着するまでは大体良いが、その後は邪馬台国が九州に収まらなくなるなど、上手く説明が出来ない。
Ø  上手く説明する為の説も、誤記とか、国名の読み替えとか、前提に無理がある。

邪馬台国大和説
l  「魏志倭人伝」の記述による位置関係からは、邪馬台国が大和ではあり得ない。しかし、その記述の南を東に読み替えると、記述と考古学からの解釈とが上手く整合する。
Ø  ここで、「魏志倭人伝」の記述の南を東に読み替える根拠は、古代からあったとされる中国の地理観の誤りにある。15世紀の明の時代から保存されている「混一疆理歴代国都之図」という地図に記載されている日本列島の位置関係は、90度ほど右回転しているとともにかなり南によっている。「魏志倭人伝」の記述がこの地理観によって記載されているとすれば、邪馬台国大和説は整合性がある。
l  (注:ここで著者は、主に文献資料を根拠にする歴史学と、遺跡・遺構・遺物の検討に基づく考古学のどちらがこの問題を、更には歴史の課題を解くための正しい方法なのかという問いは意味がなく、その両方をどのように利用したら良いのかと問うべきである、という至極まっとうな考えを述べている)

2 前方後円墳体制の成立
卑弥呼の墓
l  古墳[6]の出現およびその他の考古学的検証から、三世紀前半に日本列島のほぼ全域を支配する政権が大和(畿内)に誕生したと推定される。
Ø  (注:弥生時代の考古学的検証から、日本列島内に次第に形成されてきたいくつかの地方権力の内、三世紀前半には畿内=大和の勢力の影響力が一番大きくなっていたと推定されている)
Ø  著者は、この大和の政権が卑弥呼を女王とする邪馬台国であったと推定する。しかしまだその場所は確定されるには至っていない。
Ø  古墳は、出現した時から巨大な墳丘を持っており、弥生時代の墳墓と比べてその差は歴然としている。
²  初期の古墳で、大和にある三世紀前半頃の纒向遺跡にある箸墓古墳(前方後円墳)の体積は、弥生時代最大の墳丘墓である岡山の楯築墳丘墓(円丘墓の両端に突起がある墳墓)の100培もある。
l  「魏志倭人伝」には、卑弥呼が没した時に巨大な墓が作られ、その大きさは「径百余歩」と記載されている。卑弥呼の墓は弥生時代の墳墓の調査結果考えれば前方後円墳であるほかはない。従って、同時期の「箸墓古墳」は卑弥呼の墓の可能性が高い。
l  卑弥呼の墓以降、支配者集団は巨大な古墳を築くことで権力の維持を図る必要があった。この時代は六世紀末まで続き、古墳時代と名付けられている。

前方後円墳と前方後方墳
l  前方後円墳と同時期に前方後方墳も出現する。前者の方が優位であったが後者も存続していた。著者はこれを前方後円墳体制と呼んでいる。
Ø  箸墓古墳の全長は280メートルであるのに対して、同時期の前方後方墳である京都府元稲荷古墳の全長は92メートル
Ø  どちらの形式も基本設計数値が共通(主要寸法が相似形)であるのに対して、それ以前の時代における後円墳原形と後方墳原形では設計の共通性はなくかえってせめぎ合う関係[7]にある。つまり後円墳側の言い分に従うことになったと推測される。
Ø  東海の狗奴国が邪馬台国と戦って、邪馬台国優位で収束したと推定される
²  「魏志倭人伝」は、「倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとから不和である。(中略)たがいに攻撃」している、と記述している。そしてこの戦闘は247年ということになるが、この年は卑弥呼の死んだと推定される年の前年で、これ以降東海地方でも後円墳が出現し、規模の点でも後円墳が後方墳を凌駕し、設計標準も後円墳が採用される。

墳丘と規模とによる身分表示
l  古墳時代の身分秩序は古墳の形式と大きさの二つで表現された。形式の序列は、前方後円墳が一番上で前方後方墳がそれに続き、あとは円墳と方墳が続く。
l  前方後円墳と前方後方墳等他の形式の墓が併存していることは、古墳時代の身分秩序は奈良時代の律令国家の者とは違って、実力のある首長同士の相互承認関係であると推測される。著者はこの体制を前方後方墳体制と名付けている。この体制は、前方後円墳が継続する四世紀末まで。
Ø  つまり、一方的な任命が出来るほど強力な中央政権ならば、中国の殷や周王朝のように王墓が縮小された形に統一され、地方の有力首長の墳墓はすべて前方後円墳であったであろうし、あるいは王だけが特別な形の墓をもったエジプト王朝のように、中央政権を担った王だけが前方後円墳を築いたと考えられる。

3 三角縁神獣鏡の謎
鏡と古墳築造年
l  古墳の相対年代(作られた年代の順番)はその形式によって推定が可能である。鏡等の副葬品はそこに記載されている年代記録や形式によって製作年代の推定が可能である。従って、副葬品は、その古墳が出来た時を判断するための有効な情報を提供する。
Ø  古墳の副葬品は(その意味合いから)、古墳が出来上がった時とほぼ同時に副葬され、また、古墳が出来上がる前に製作あるいは中国から持ち込まれたと推定される。
Ø  三角縁神獣鏡は、(中国製も日本製も)古い順から四段階に分かれている。そのうち古い一、二段階のものが、日本の最も古い形式の古墳にしばしば副葬されている。
l  卑弥呼の墓は、白石太一郎氏をはじめ、著者を含めて多くの研究者が箸墓古墳である可能性が高いと考えている。しかし発掘が許可されないので確認できていない。
Ø  卑弥呼の墓であるための条件は、三世紀前半から中頃に築かれた巨大な前方後円墳で、三角縁神獣鏡が副葬されていて、その他の副葬品を含めてそれらが製造された年、あるいは中国から持ち込まれた年は三世紀前半ころ、となる。
Ø  小林行雄氏の説に基づき、最近まで、前方後円墳が出現したのは三世紀末と考えられてきた。
²  京都府にある三世紀末の椿井大塚山古墳に、卑弥呼の使者が持ち帰ったと思われる古い三角縁神獣鏡が大量に副葬されていた。
²  椿井大塚山古墳は当時最古と思われていた。
Ø  その後、弥生時代の終わりが(従来よりも遡って)三世紀中頃となったことを根拠に、白石太一郎氏は、前方後円墳の成立年代を三世紀中頃から後半と考え、卑弥呼の墓はその頃に築造された最も古い前方後円墳である、と推定した。
Ø  現在においては、弥生時代の終わりは三世紀前半に遡っている。従って(白石太一郎氏の推論を適用すれば)卑弥呼の墓は三世紀前半から中頃に築かれたと推定される。箸墓古墳周辺から出土する特殊器台[8]の年代も三世紀前半を示している。

より古い古墳の発見
l  ここ十数年の間に、三世紀末の椿井大塚山古墳より古い古墳が見つかった。その根拠は、古墳の形式と埋葬されていた三角縁神獣鏡の古さの段階区分である。
Ø  一、二段階の三角縁神獣鏡だけが埋葬されている古墳は、兵庫県権現山51号墳と同県の西求女塚古墳、兵庫県吉島古墳。一、二、三段階の三角縁神獣鏡が埋葬されていたのは岡山県車塚古墳。
Ø  椿井大塚山古墳に埋葬されていた三十二面の三角縁神獣鏡は、一、二段階だけではなく、それより30年程後の三、四段階の三角縁神獣鏡が含まれていた。
l  卑弥呼の墓を明らかにするためにも、最古の古墳を明らかにするためにも、三角縁神獣鏡の研究が益々重要になってきて、ここ30年ほどで飛躍的に進んだ[9]

製作地論争
l  福永伸哉氏は、三角縁神獣鏡が威信財として古墳時代の社会秩序の形成と維持に大きな役割を果たしたことを明らかにした。
l  三角縁神獣鏡は中国の魏で作られたと思われていた(魏の年号などの銘文から)。しかし、中国で一枚も見つからないので、中国の工人が日本で作ったという説が出た(森浩一氏、王仲殊氏)。
l  その後、福永氏が、三角縁神獣鏡のつまみ部分にある紐を通す穴の作成具合の詳細な調査から、魏晋代の中国華北地域の工人によって、魏と晋の国で、一定期間だけ製作されたことを明らかにした。尚、一定期間だけ作成されたと言うことは、1951年に小林行雄氏が推論した、邪馬台国だけに与える「特鋳鏡」の概念を裏づけることとなった。
l  福永伸哉氏は、「特鋳鏡」の製作年代を、卑弥呼が魏に初めて使者を送った西暦239年から280年代までとし、日本で作り始めた「倣製橋」の製作年代を西暦300325年(西晋の滅亡時期)から7080年間に限定されると結論づけた。

朝鮮半島情勢からの推論
l  近藤喬一氏は、三国時代の政治情勢の解析から、三角縁神獣鏡は自国の威信を知らしめるため卑弥呼の使者に与えるものだから、魏で製作されねばならないと主張した。

解明される三角縁神獣鏡
l  新納泉氏は、三角縁神獣鏡の文様、傘松形が、もともと中国の皇帝が臣下に信頼を与える「節」を模したものであると考え、「節」の形の変遷から制作順を明らかにした。
l  岸本直文氏は、三角縁神獣鏡の非常に複雑な神獣の文様を詳細に観察して分類し、異なった三つの製作所集団によって作られたことを明らかにし、文様の形式は中国の鏡の形式の仲から成立したものであることを明らかにした。
l  森下章司氏は、鏡の外側と内側の文様を組み合わせて倣製鏡の編年を組み立てた。また、倣製鏡は単なる中国製の模倣ではなく、多様な使い方で長期にわたって盛行したものと考えた。
l  福山敏男氏は、中国出土の鏡の銘文から、王仲殊氏の日本製作説の根拠の一つである、銅が魏からは採れないという根拠に反論した。
l  下垣仁志氏は、倭の中央政権が古墳時代前期に倭製鏡を作った意図を「畿内王権による諸地域有力者集団の格差付け」のためと考えた。

鏡の編年と分布から
l  岡村秀典氏は、漢代400年間の鏡(漢鏡)の編年を組み立て、漢鏡に続く三角縁神獣鏡の編年を組み立てた。これらの編年は邪馬台国の成立自体、時期、場所の特定に根拠を与えている。
l  岩本崇氏は、倣製鏡制作者集団が複数同時に存在したことを、鏡のつまみや縁の特徴から明らかにした。
l  車崎正彦氏は、中国製の三角縁神獣鏡と倣製鏡への模様の連続性から、倣製鏡であるとされてきた鏡(の一部)が中国製である可能性を指摘した。
l  小山田宏一氏は、前方後円墳の埋葬形式や三角縁神獣鏡の多さから、古墳祭式のイデオロギーが体系化する上で、中国の神仙思想が重要な働きをしたことを明らかにした。

第三章 巨大古墳[10]の時代へ
1 東アジアの大変動
倭王武の上表文
l  前方後円墳体制という独自の支配体系は、五世紀に起こった東アジアの動乱の影響を受けて体制を強化していくことになる。(その強化策の一つは)中国王朝に朝鮮半島南部における倭国の覇権を認めさせることであった。
Ø  四世紀の初めの中国の統治が不安定になってきた。
²  漢族の西晋が胡族に追われて南に逃れて東晋(AD317-420)を立て、華北は五胡十六国時代(AD316-439)。
Ø  朝鮮半島の統治も不安定になってきた。
²  朝鮮半島北端の高麗は、中国の抑圧から開放されて力を付け、314年には中国の支配下にあった朝鮮半島帯方郡を滅ぼす。
²  高麗の南下に危機を覚えた百済は、東晋王朝に入貢して、417年に百済王の称号を授かる。
Ø  倭も影響を受け始める
²  372年、倭との友好により自らの政治的安定を図るために百済の王から七支刀が倭王に贈られる(奈良県石上神宮伝)。
²  391年、高句麗の好太王(広開土王)が倭を高句麗の国境で撃退する(倭が百済、新羅に侵攻し高句麗に来襲したので撃退した、と「広開土王碑」に記載)。
²  五世紀に倭の五王[11]は中国各王朝に使者を派遣し、朝鮮半島南部における覇権を認めるよう働きかけた。
²  478年、倭国王の武は中国南朝の宋に、朝鮮半島の大部分を治める大将軍に任じて欲しいと上表文を出し、そのうち宋の庇護の元にあった百済を除いた分を認められた。
²  倭の五王の外交活動や軍事行動の目的は、上記のようなものの他、更に具体的な、鉄資源の獲得、先進文物の確保にあった。

鉄資源と先進文物の確保
l  四世紀末から五世紀にかけて、朝鮮半島南部の政権(新羅、百済、加耶地方の弁辰)と日本列島西部の政権(倭)は、相互利益の関係において交流が盛んであった。
Ø  倭の中央政権の目的は、統治のために鉄や陶質土器や先進技術を導入すること。
Ø  百済や加耶地方にとって、倭との友好関係が南下する高麗の圧力に対して不可欠。

四世紀末の大きな前方後円墳
l  四世紀末から五世紀初めにかけて、朝鮮半島との交流に適した港を持つ地域に大きな前方後円墳が出現し、外海輸送の大型船なども使われたようだ。このことは、五胡十六国時代に入り不安定化した中国の状況を背景に、日本列島と朝鮮半島と間で活発な交流が行われたことを示唆している。
Ø  これらの古墳が、前方後円墳であることは、畿内の倭政権からの派遣者のものか、倭と同盟を結んだ有力な地方首長のものと推定される
Ø  古墳から、朝鮮半島の影響を受けた鎧(三角板革綴短甲)、朝鮮半島南部製の馬具、鉄鋌、陶質土器、船の埴輪等々が出土する。

巨大前方後円墳が河内と和泉に
l  四世紀末から五世紀に、前方後円墳の立地が移動する。この理由については次項で考察する。
Ø  四世紀末には、奈良盆地東南部(大和・柳本古墳群)から奈良盆地北部(佐紀古墳群)へ移動する
Ø  五世紀に入ると、大阪の河内(古市古墳群)や和泉(百舌鳥古墳群)へ移動する。五世紀は、前方後円墳が最も大きくなった時期で、河内の誉田御廟山古墳(伝応仁陵)、和泉の大仙陵古墳(伝仁徳陵)が著名である。

2 首長系譜の断絶と政変
中央権力の移動と地方首長系譜の変動
l  古墳の姿を調べることで、古墳時代(三世紀前半~六世紀末)の間において、五世紀後半までは中央権力の移動がしばしば起こり、それと連動して、(卑弥呼の邪馬台国以降に出現してきた)地方の有力首長の交代もしばしば起こったと推定される。
Ø  古墳の集積地域の移動や盟主墳(地方首長の古墳)の消滅・出現が起こった。
Ø  盟主墳の移動は全国規模で連動する傾向がある(同盟関係の存在)。
Ø  四世紀末から五世紀初頭にかけて、畿内の巨大前方後円墳が大和から河内に移動した。また、その時期に地方においても盟主墳の移動が起こった(中央政権とそれを支える地方権力の関係)。
Ø  全国的な盟主墳の変動時期は、3回ある。一回目が四世紀末~五世紀前半、二回目が五世紀後半、三回目が六世紀前半、である。

一回目の変動[12]
l  四世紀末~五世紀前半には、大和東南部を根拠地とした中枢政権とこれを支える地方の有力首長の同盟が弱体化し、河内に拠点を持つ中枢政権とこれを支える地方の有力首長の同盟が主導権を持った。
Ø  畿内においては、畿内の巨大前方後円墳が大和から河内に移動した。
Ø  西日本では、四世紀末までに備前地域に現れた盟主墳が五世紀になると備中地域に移動する。その他、揖保川流域(姫路)や神戸市域の首長系譜も移動する。
Ø  東日本では、山梨県中道地域の系譜や福島県会津盆地の系譜が断絶し、群馬県の毛野(関東における伝統的地方権力の一つ)では中部の系譜が東部に移動する。

二回目の変動[13]
l  五世紀後半。全国で多くの系譜で盟主墳が断絶すると同時に全く新たな盟主墳が出現する。この出来事は、伝統的政治体制を支える有力首長同士のネットワークを破壊し、中央に権力を集中する革新的体制を敷いた雄略大王の出現と関係がある推定される。
Ø  五世紀になって出現してきた多くの有力首長の系譜が断絶して空白となる。鹿児島大隅半島の唐仁古墳群や塚崎古墳群の盟主墳、宮崎県の女狭穂塚古墳や男狭穂塚古墳、兵庫県但馬の円山川流域に出現した大規模な前方後円墳等が消滅。畿内の淀川水系の有力首長系譜が断絶。
Ø  一方、五世紀後半になって別の系譜が巨大な前方後円墳を築き始める。熊本の菊池川流域の系譜には江田船山古墳、埼玉県稲荷山古墳の系譜である稲荷山古墳、群馬県の保渡田古墳群の系譜の盟主墳など。
Ø  江田船山古墳と稲荷山古墳から雄略大王に関した文字を刻んだ鉄剣が出土したが、この銘の内容から、古墳の被葬者が雄略大王に仕えた郡や文書関係の官人と推定されている。
Ø  群馬の保渡田古墳群に関連した三ツ寺遺跡には、首長権の驚異的な力を見せつけるような高い技術レベルの灌漑用水路や巨大な居館遺跡がある。
Ø  「記紀」には、中央政権と吉備の争いや関東の毛野などの伝統的地方権力者達との主導権争いが記録されている。

三回目の変動
l  六世紀前半には、全国の多くの系譜の断絶と開始があった。この変動の特徴は、前回の変動で断絶した多くの系譜が復活するとともに、渡来系集団が政治的力を持った[14]ことにある。この出来事は、淀川系系譜に属する継体大王の出現と関係があると考えられている。継体大王は渡来系勢力に支えられていたと考えられる(一瀬和夫氏)。
Ø  大阪三島(現在の高槻市)の今城塚古墳は、継体大王陵[15]と考えられている。
Ø  この時期に新たに出現する盟主墳やその近くには、渡来系集団の存在を窺わせる遺跡、遺物が出土している。
²  渡来系住人(出土する土器の形式から判断)による新たな畑作経営が行われていた(京都府嵯峨野、長野県天竜川流域など)。
²  当時の日本列島にはなく、朝鮮半島に行われていた馬を飼育する「牧」の経営が行われていた(天竜川流域、群馬県の白井・吹屋遺跡)。また、大阪府寝屋川の讃良郡では戦闘用の馬の飼育されていた(出土した馬具からの推定)。

倭政権の軍事的性格
l  四世紀後半から五世紀初頭にかけての列島規模の政変は東アジア情勢の緊迫化に連動しており、倭政権は、列島主要部の首長層を軍事的に動員する必要に迫られた。
Ø  鉄の確保のために朝鮮半島の覇権を強化する必要があった。
Ø  (このころまでの倭政権は中央集権力が足りなかったので)中国外交活動を利用して、首長層の結束を図る必要があったと考えられる。例えば、中国皇帝に対して、自分の称号以外に、主要首長の称号も要求して認められている。
²  倭の五王の二代目、珍(反正)は「倭隋ら十三人に」将軍号を要求。
²  倭の五王の三代目、済(允恭)は「二十三人に軍郡」を要求。

l  四世紀後半から五世紀後半にかけて、倭政権の性格は前方後円墳勢力による強力な中央政権へと変化する。同時に、朝鮮半島の百済や加耶の諸勢力との友好関係に積極的な河内の大王との結びつきが強い勢力が強化され、三世紀半ばから政権を握っていた奈良盆地の勢力が相対的に弱くなった。
Ø  五世紀初めの段階で、前方後方墳勢力がふるい落とされる
Ø  五世紀後半には、前方後円墳勢力による強力な中央政権体制へと変質する。

吉備と大和
l  吉備には、古墳時代を通じて強力な地域権力があり、五世紀半ばまでは畿内の中枢政権と友好関係にあった。倭の反正や允恭と共に中国皇帝から称号をもらった有力首長の一人と推定される。
Ø  岡山の巨大な前方後円墳の造山古墳、作山古墳は、同時代に築かれた畿内のミサンザイ古墳(履中陵)と同じ設計となっている
Ø  吉備は「魏志倭人伝」にある「投馬国」の中心と考えられている

雄略大王、継体大王の性格
l  倭の五王は、有力首長に共立された卑弥呼の政権である邪馬台国の延長上にある政権の中において、政権の交代を繰り返す東アジアの状況を目撃し、百済等との交流を通じて、国家経営における官僚や軍事力の重要性を認識していたと推定される。
l  雄略大王は、各地の有力首長連合体制を解体させて中央集権体制を押し進め、成熟した国家への飛躍の準備をした。だがそれは急進的であったので六世紀前半に反動期を迎えることになる。
Ø  南宋から一人だけの将軍の称号を受け取る
Ø  前方後円墳の分布が最大となった(岩手県の角塚古墳から鹿児島県大隅半島の塚崎古墳群まで)。
Ø  朝鮮半島と積極的に交流して、高度な文化を取り入れた。
²  カマド、精巧な威信財、馬具、武器、鎧、など
l  六世紀前半は、継体大王の時代となる。「記紀」に見える継体大王擁立運動は、伝統勢力の巻き返しによる反動の嵐と言える
Ø  六世紀前半に九州の有力首長である磐井が起こした「磐井の乱」は、継体大王の時代ではあるが、雄略の時代からの対外活動に伴う軍事負担への抵抗、また有力首長連合を崩したことへの抵抗と考えられる。

第四章 権力の高まりと古墳の終焉
1 豪族の居館と民衆の村
三ツ寺遺跡の居館
l  大きな前方後円墳に葬られた首長たちの生活と彼らに支配された民衆の生活を伺い知れる遺跡が、群馬県の三ツ寺遺跡(首長)と黒井峯遺跡(民衆)にある。

政治と祭祀の空間
l  三ツ寺遺跡の居館跡は、五世紀後半から六世紀初頭の遺跡で、幅40メートル深さ3メートルの濠に囲まれた空間に首長の住居と「マツリゴト」の場が区分して存在する。六世紀初頭の榛名山の噴火で放棄された。

開発を指揮した首長
l  三ツ寺遺跡の近くには同時代の前方後円墳が三つあり、段丘に沿った灌漑用水路や水田や畑が開発されている。これらは首長の指揮で農民が動員されたものと推定される。

墓の階層化
l  古墳時代には、大王は500メートルくらい、首長は100メートルくらいの前方後円墳をつくるようになっていた。一方、個別の小さな盛り土の墓と厖大な数の土壙墓が作られていた。土壙墓は、一カ所で600から700体も埋蔵されたものもある。このことは、農民の間にも階層化が進んだことを示している。

首長居館と民衆
l  環濠集落から首長の居館が独立して、一般住民との隔絶性を強めていく一方、残された一般農民もまた、小規模ながら柵列や濠で囲まれた屋敷地を築き始める。
l  一般農民の屋敷地の遺跡には、一軒当たりの屋敷地の広さ、建物の格式、立地条件、等に差異があり、彼らの間においても更に細かな階層区分があったことを窺わせる。

首長居館の構成
l  屋敷地の広さは一般には50メートル四方くらいだが、三ツ寺遺跡では86メートル四方、群馬県原の城遺跡では105メートル×165メートルもある。
l  屋敷地は防御の為の広い濠や柵で囲まれ、内部も柵でいくつかに区分けされている。その区分けの一つに、地面を掘り下げた竪穴式ではない、地面より高い床を持った平地式の大きな居館がある。
l  井戸と祭祀施設があり、祭祀施設には水が係わる。祭祀施設の中には祭祀用の導水設備や、導水施設と庭園と組み合わせたものもある。
l  日常生活に必要な家政機関的施設や、身の回りの世話をする人々が住む竪穴式住居、馬小屋と思われる建物、倉庫も備わっている。

日本のポンペイ、黒井峯遺跡
l  黒井峯遺跡は三ツ寺遺跡の北十数キロメートルにある一般農民の村落遺跡である。この遺跡は、六世紀半ばに大噴火を起こした榛名山の軽石の堆積、約2メートルの下から発掘されたものである。
l  この遺跡の西部地区の発掘から、四世紀には屋敷地を築き、平地式住居に住み、小さいながらも(高床)倉庫を持ち、牛を使った農業を行った農民がいたことが分かる。

村落内にも階層分化
l  黒井峯遺跡の西部地区以外には(高床)倉庫や牛小屋は無い。同じ農民の間にも格差があったことが推定される。
l  三ツ寺遺跡と黒井峯遺跡だけではなく、この時代の(日本列島の九州から関東に至るまでの)集落一般の有り様から、大王、有力首長、首長、有力農民、一般農民、隷属民といった階層分化が生じていたことが推定される。

租税と大型倉庫
l  階層分化が生じると、租税と賦役労働が始まる[16]。そのことは、倉庫の規模、数、あり方、巨大古墳の造営や水利土木工事等に投入された労働力の推計から窺い知ることが出来る。
Ø  大阪府法円坂遺跡の例。五世紀後半、河内に近いこの遺跡には大型高床式倉庫群があり、その年間貯蔵能力をお米に換算し、当時の収穫効率や税率を仮定して計算すると、必要な水田面積は今の大阪府の2030%くらい[17]となる。河内は当時の政治中枢地域なので、ここは政権中枢の政治機構の一部と推定される。
Ø  和歌山県鳴滝遺跡の例。ここの倉庫群は法円坂遺跡の1/4程の規模があり、『日本書紀』に伝える有力首長である紀氏との関係が推定できる。

首長の倉庫と農民の倉庫
l  佐賀県吉野ヶ里遺跡[18]には、弥生時代の高床式倉庫群が発見されている。ここは環濠集落なので、税の徴収で収奪した米などのための倉庫ではない。一方、法円坂遺跡や鳴滝遺跡など(古墳時代の巨大倉庫群の遺跡)は、大王や首長が農民から税の徴収で収奪したものを貯蔵するための倉庫である(129ページに記されているように、倉庫群の遺跡は祭り事を行う地にあり、貯蔵されたものは首長個人が消費するためのものではない)。

賦役労働の萌芽
l  古墳の築造や灌漑用水路の造成等には多くの農民の賦役が必要なはずである。例えば河内の古墳築造だけでも1500万人が動員されたと推定されている(石川昇氏)。古墳時代は租税や賦役労働を課された人々と、それらを課す首長が存在する階級社会であった[19]

2 支配組織の整備
稲荷山古墳の鉄剣
l  階層社会全体を維持管理する専門集団の存在は、「記紀」の研究から解明され始めているが、古墳から出土した刀の銘からも解明され始めている。
Ø  19789月に公表された埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に刻された115文字の銘文から、五世紀後半のワカタケル大王(=雄略天皇)の時代には、身辺警護を務める軍事組織(その首人は「一杖刀」)が、その首人の八代前から存在していたことが推定された。
Ø  熊本県江田船山古墳出土の太刀の銘文が、稲荷山古墳出土の鉄剣の銘が解読された後に再検討が行われ、雄略大王の時代に文官(その官職は「典曹人」)が存在していたことが推定された。
Ø  1987年に千葉県稲荷台一号噴出土の剣に銘文があることが判明し、その断片的内容から、雄略大王より前の五世紀半ばには、中央権力から東国の首長に刀が下賜され、この首長が軍事的仕事に関わっていた可能性が指摘されている。

軍制と官人制の整備
l  稲荷山古墳の銘文によって、「記紀」に記された「人制」という官僚制の起源が六世から少なくとも五世紀後半にまで遡った。
l  古墳時代の倉庫群は祭り事に組み込まれたものなので、貯蔵品の搬入出や保存管理という仕事を行う官人の存在が推定される。

急進的な中央政権政策
l  稲荷山古風や江田船山古墳の刀の銘文、古墳から出土する大量武器や武具のあり方、(中国の「史書」から覗える)東アジア外交の必要性、巨大倉庫群の運営等々から、五世紀には軍事制、官人制とも(急速に)整備されていったことが推定される。
l  特に五世紀後半の雄略大王は、急進的な中央権力の成長を目指した行動をとったと推定される。強大な地方権力であった吉備氏の反乱と没落はこのような背景から起こったものであると推定される。これらのことは、「記紀」の記述とも整合性がある。

覇権拡大と流通網整備
l  五世紀には前方後円墳の分布が最大となり、北は岩手県角塚古墳(胆沢城近く)、南は鹿児島県の唐仁古墳群と塚城古墳群まで広がっている。更に、この範囲には、大阪府の陶邑窯跡群で生産された須恵器が運ばれていた。このことは覇権の拡大が流通網の整備を伴ったものであったことを物語っている。

韓国の「前方後円墳」
l  朝鮮半島南西部の栄山江流域に、六世紀前半に造られた前方後円墳が13基ある。これらは欽明期に見られる倭系百済官僚の原型となった倭人の墓であるとも考えられる(朴天秀氏)。但し、これらの古墳には系譜は無く、またこの時代限りのものである。
l  六世紀前半は、百済は武寧王、日本[20]は継体大王の時代であり、武寧王の棺は日本の高野槙で造られている。このことは、継体大王と武寧王の密接な関係を窺わせる。
l  五世紀末から六世紀にかけて、雄略大王とそれに続く継体大王が朝鮮半島に対して密接な交流(特に百済)を持ち覇権を拡大したことは、(中国の「史書」や日本の「記紀」などの記述だけでは無く)様々な考古学的は知見からも推定することが出来る。

継体大王と磐井の乱
l  継体大王の時代に起きた磐井の乱とは、『日本書紀』によれば527529年にかけて、筑紫国造磐井が、朝鮮半島に出兵しようとした中央軍を阻止したが鎮圧された事件である。この時代における全国的な古墳の系譜の変化は、磐井の乱が起こった理由が雄略大王の強力な中央集権政策に対する抵抗運動であったことを窺わせる。
l  雄略大王と継体大王とでは、その支持勢力が違っていた[21]。しかし、(倭政権における中央権力の移動があったにもかかわらず)ともに中央政権を目指していくことが可能であったのは、東アジアと対等に渡り合って行く必要性のためであったと推定される。
l  文献史家の喜田定吉氏や林家辰三郎氏は、雄略大王と継体大王は家系が異なると考えている。「記紀」によれば、継体大王は北陸から京都南部に移動し、大和に移って大王についたとあるので、河内で続いた雄略の系譜を継いでいないと推定される。

3 前方後円墳の終焉
横穴式石室と群集墳の急増
l  六世紀になると、横穴式石室を持った直径1020メートル程度の小さな円墳が集まった群集墳が一般化する。これは、渡来集団の文化が、この時代になって日本に広く受け入れられたことを意味している。
Ø  この形式の墳墓は、九州の福岡県など一部の地域では既に四世紀末には採用されてはいたが、一般化はしていなかった。
Ø  横穴式墳墓の構造は、広い石室を造って(一族を順繰りに葬ることで)来世の家とし、死者が来世の生活を営む場を重視する思想に基づいたものであり、中国の漢代に生まれ発達したものであった。須恵器や土師器などの食器や祭器を副葬することなどの埋葬形式もこの思想に基づいている。

家族墓が集合した同族墓
l  横穴式墳墓一つについて一人の家長と同世代の家族が入り、次の世代はその傍らに別の横の墳墓を造る。この墳墓の集団が同族墓で、300基もの同族墓もある。同族墓同士の規模や埋葬品などを比較すると、階層的な分化が広がっていることが分かる。

親族関係を探る方法
l  家族墓に埋葬された人々の関係が、科学的分析で明らかになりつつある。その結果から従来の説とは異なる当時の社会の一端を知ることが出来る。
Ø  田中良之氏は、弥生時代終末期から古墳時代にかけての、九州から中国地方の群衆墓と古墳の人骨の歯冠計測値(歯の幅や厚みの測定値)から次のことを推定した。
²  弥生時代終末期から五世紀までは、合葬されるのは兄弟姉妹だけである(キョウダイ原理)
²  初葬者(家長)は、五世紀までは男女ほぼ同じであったが(双系制)、五世紀後半になると男性のみになるが家長の子どもは男女ともに埋葬されている(典型的な父系社会とも異なる、前代の双系的性格を残している社会)。
²  夫婦合葬は六世紀から始まる。
Ø  清家章氏は、人骨の歯冠計測値と、遺伝性が高いとされている頭蓋の小変異を援用して、近畿の古墳被葬者の親族関係を追求して次のよう推定した。
²  古墳時代を通じキョウダイ原理が行われている可能性がある。
²  初葬者の男女比については、古墳時代前期から中期にかけてはその差は無いが、後期になると男の割合が増えるものの女の初葬者も一定存在している。つまり、古墳時代は父系化が貫徹していなかった。
Ø  従来は、小林行雄氏の説によって、古墳時代は父系制の社会と考えられてきたが、新しい考古学的知見に依れば、女性も社会的に活躍していたのでは無いかと考えられる。
有力氏族による同族編成
l  群集墓[22]の出現は、一般的な社会関係の変化ではなく、政治的意味を帯びた事象、(具体的には)群集墓は有力氏族の権力を誇示する新しい手段であったと考えられる。
Ø  群集墓は、弥生時代から古墳時代に至るまで続いている共同墓地や同族墓地、或いは農民の台頭によって出現したと考えられている小型墳丘墓のように、広く社会一般に分布するようになったのでは無く、社会に偏在的に出現してきた。
Ø  大規模な群集墓の場合には、文献資料に残る氏族伝承とつき合わせると同族集団の名前が特定できるものがある。例えば、和歌山市の岩橋千塚古墳群の紀氏、大阪府八尾市の高安千塚や柏原市平尾山千塚の物部氏など。

前方後円墳の変質
l  六世紀に入ると、前方後円墳の造りが変質する。これを研究すると当時の社会の変化が見えてくる。その一つのポイントは、権力維持を可能にする方法が、王権継承儀礼から国造制という官制へと変化してきたことにあると推定される。
Ø  前方後円墳祭式を体現する大規模な前方後円墳では、墳丘にしつらえた段の数が三つか二つに減り、竪穴式石室から横穴式石室となり、墳頂の埴輪が無くなる。
²  王権継承儀礼は、墳丘にしつらえた三つの段と墳頂部の広場に埴輪を華やかに立て並べ、「職業集団が芸能をもって、正しく場を与えられて配置され、また、掌膳集団が歌舞」して執り行われました(水野正好氏)。
²  横穴式石室には横から遺体を搬入するから、儀式の場は墳頂では無く、横から石室へ続く通路[23]となった。
Ø  六世紀に入ると、首長は中央政権の設けた地方行政組織の長である国造に任命されるようになる。軍事権や裁判権を備えた国造制は、西日本では六世中頃、東日本ではそれより半途ほど遅れて整えられた(篠川賢氏)。
l  関東においては状況が異なっていた。「大王墓も含めた畿内の後期の60メートル以上の前方前方後円墳が39基にすぎないのに対して、関東地方のそれが215基を数える」(白石太一郎氏)。
Ø  このような関東の状況に対する解釈例
²  関東は西より遅れて古墳が消滅するという一般的な流れだけでは無く、近畿の中央集権が関東の首長層の支配体制を意図的に温存して、その軍事力を利用する政策をとったため(甘粕健氏、小宮まゆみ氏)。
²  新納泉氏は、軍事的な仕事に特に深く携わる首長に中央政権が手渡す装飾太刀の分布が、六世紀末を境に東国に重心を移すことを指摘している[24]

巨大方墳の登場
l  畿内では六世紀後半には前方後円墳を営む首長は急激に減少し、その後突然造営されなくなった[25]。更に、六世紀末には大王クラスの首長墓に大型の方墳が採用されるようになった[26]。並行して、仏教祭式が取り入れられてくる。このことは、権力が安定してきたことにより、権力の継承のための前方後円墳祭式の意味が失われ、それに代わって仏教祭式が取り入れられてきたのだと解釈することが出来る[27]
Ø  六世紀後半において、大王に近い権力を持っていた蘇我氏や、女帝推古など蘇我氏を外戚とする大王は、前方後円墳を否定して大型方墳を採用した。蘇我氏は飛鳥の地に石舞台古墳と、氏寺である飛鳥寺を築いた。
Ø  陵園に仏寺を建立する思想は北魏の思想である。五世紀末の高句麗の東明王陵は北魏の影響を受けた方墳であり、仏寺を傍らに築いている。
Ø  蘇我氏は北魏の思想の影響を受けて方墳とその近くに飛鳥寺を建立したと考えることも出来る。
l  関東においては、最後の前方後円墳が造営されたのは七世紀後半。それ以降は、例えば利根川沿いの総社古墳群では方墳になり、並行して山王廃寺が建立された[28]

第五章 律令国家の完成へ
1 律令国家と都市
徐々に整えられた律令制
l  初めての律令制が敷かれたのは七世紀の飛鳥京で完成は八世紀初頭と言われている[29]。統治範囲は、南は薩摩国から北は陸奥国まで五十八国三島に及び、身分制度[30]、官僚制度[31]、国家による土地の占有[32]、軍制制度[33]からみると、この時点において古代国家として成熟したものと言える。
l  しかし、唐の律令制が取り入れられた背景には、663年の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗した後の危機感から急造したという事情があるから、日本の実情に合わせながら、飛鳥京から藤原京、平城京へと遷都する過程で何度も修正しつつ作り上げられてきたものの、その完成は八世紀末の平安時代であるであるという説もある(鈴木靖民氏)。

飛鳥京は都市か
l  飛鳥京には、政治、宗教、経済のセンター機能と官人集住域があった。したがって、すでに都市であったと言える。
Ø  推古天皇の豊浦宮や小墾田宮から天武天皇の飛鳥浄御原宮にいたる10ほどの宮(京城)があった
Ø  京城には飛鳥寺、川原寺など寺院が多数建立された
Ø  蘇我蝦夷、蘇我入鹿が近くの甘樫の丘に居を構えるなど、有力氏族の邸宅が多くあった
Ø  飛鳥京の水落遺跡では水時計が置かれた建物が発掘された(官人はこの近くに住んでいた証拠)
Ø  『日本書紀』の記述にも、飛鳥京が都市としての機能を持っていたいくつかの記述がある。例えば難波京を副都として、官人に宅地を班給することを命じる記述など

藤原京の成立
l  694年に持統天皇は飛鳥京(=倭京)から、その北西に隣接する藤原京に遷都した。ここで律令制はより日本に適したものに改良された。
l  藤原京では、天皇とその一族が住む内裏地区と、政治の場としての大極殿と朝堂院からなる宮殿を中央に配置し、その四方に条坊に沿って町並みを設けている。藤原京の内部の構造についてはまだ解明されていないことが多いが、近年の発掘で後の平城京に匹敵する規模であったらしいことが分かってきた。

都市の機能
l  都市の定義は人によって様々だが、著者の考えは以下(第一章の再掲)。
①.    首都の政治センター機能と、門前町などの宗教センター機能と、港町などの経済センターきのうを併せ持ち
②.    王や役人、神官や僧侶、手工業者や商人など、農民以外の多数の人が住みつき
③.    人口が極度に密集した結果、近隣の資源だけでは自給自足できなくなり、食糧や生活の必需物資を外部の遠隔地に依存する社会
l  既に飛鳥京は都市であったが、突然都市となったのではない。都市としての要素が長い年月をかけてどのようにして蓄積されてきたのだろうか、次ぎにそれを考えてみる。

条坊制[34]は都市の必要条件か
l  飛鳥京の条坊制は、最後の天武・持統の頃にはあったが、はじめからあった証拠はない。しかし、発掘で判明した諸事実から、条坊制の設計図なくして飛鳥京は作り得ないと考えられる。
l  しかし、著者の上記定義に照らすと、条坊制は都市の必要条件ではない[35]

2 都市の発達
宮殿と首長居館
l  弥生時代の環濠集落は、まだ自給自足的だから都市ではなく城塞集落と著者は呼んでいる。古墳時代の首長居館も、この点については今後の調査研究を待たねばならない部分もあるが、いまのところ都市的環境は整っていないと著者は考えている。

須恵器、埴輪の生産の場
l  三世紀には埴輪の生産が、四世紀には須恵器の生産が始まった。しかし、それらの生産場所は政権中枢とは離れており、人口が過度に集中するという状況ではなく、都市的環境は整っていなかった。
Ø  埴輪の生産場所としては、高槻市の新池埴輪製作遺跡、奈良市の菅原東遺跡、堺市の日置荘遺跡、兵庫県那波の丸遺跡、埼玉県の生出塚遺跡など
Ø  須恵器の生産は、四世紀~五世紀前半に、北九州、瀬戸内、大阪湾岸などで始まるが、生産地の窯跡は首長の宮とは離れている。五世紀代に生産が始まった堺市の陶室窯業地は須恵器生産コンビナートみたいに規模が大きく、河内に本拠を置いた政権の中枢が直接支配したと考えられているが、場所は政権中枢とは離れている。六世紀には、豊中市の桜井谷遺跡のように地方有力首長の領域でも須恵器の生産が始まるが、その場所は政治センターの居館からは遠く離れている。

鉄器加工の開始
l  五世紀には鉄器加工も開始され、六世紀後半には鉄の精錬も始まった。しかし、それらも、人口の過度な集積を起こすようなものではなく、都市的環境が整っていたとは言えない。
Ø  五世紀代の鉄器加工工房群は大阪府大県、奈良県の布留や忍海で発見されている。これらは物部氏や葛城氏などの領内なので、これらの氏族が支配した工房と考えられている。
Ø  六世紀後半には鉄の精錬も始まった(京都府の遠所遺跡)。

交易の市
l  『日本書紀』の記述によれば、古墳時代の六世紀には既に各地に市があった(奈良県では、三輪山の麓の海石榴市、軽市、大市、大阪府では餌香市=会賀市、古市、難波市など)。これらは交通の要所にあったが、難波市を除いて近くには祭り事を行う大型建物がない。従って、市の場所も(難波市を除いて)都市環境が整った場所とは言えない。

都市的要素の分散
l  飛鳥京や藤原京にいたる前の段階では、つまり弥生時代から古墳時代にかけて、都市の要素としての政治、宗教、経済のセンター機能は発展してきてはいても、農民以外の多くの人々が集まって生活をするという状況は、考古学的発見からは確かめられていない。
l  しかし、中国の『史記』や『漢書』の記述に見られ「陵邑」[36]や、古代エジプトのピラミッドタウンのように、日本列島においても巨大古墳造営に関わる人々の都市があっても不思議ではない。現に古市古墳群や百舌鳥古墳群では「造墓工房」として把握されているし(花田勝弘氏、菱田哲郎氏)、30年以上前に「古墳造営キャンプ」という概念も提起されている(酒井龍一氏)。

第六章 日本列島に国家はいつ成立したか
1 国家をめぐる議論
国家成立時期についての様々な考え
l  日本の古代史学会では、710年の平城遷都をもっと国家成立とする見解が支配的。しかし国家は突然出現するものではないので、ヨーロッパ・北米の人類学者は成熟した国家に先立つ段階を、原初国家とか初期国家とかの名前をつけて捉えようとしている。著者は、日本列島においては古墳時代がこれに相当するという説を提唱しているが、もう少し詳しく見てみると、古墳時代のどの段階なのかを考えてみる必要があり、それには諸説がある。まずは、国家の定義自体を概観してみる。

エンゲルスとウエーバーの国家論
l  F.エンゲルスはL.モルガン[37]の『古代社会』を基礎に、『家族・私有財産・国家の起源』を書いた。そこで、エンゲルスは家族と私有財産と国家を、文明の産物として同時に出現する物と考え、階級対立の産物である国家を、それ以前の氏族組織に変わる政治組織と考えた。従って、氏族組織の血縁原理に代わる領域や支配権力の具体的手法としての租税、軍隊、官吏を重視した。律令国家段階こそ国家とする吉田晶氏(1925年~2013年、日本古代史学者)は、このエンゲルスの理論を活用した
l  M.ウエーバーは、世界史上の国家を類型的に捉えて比較し、すべての地域が農民の共同組織と城塞王制の二段階を経由し、その後、地中海世界の古典古代ではポリスが発達したのに対し、オリエントでは官僚制を持つ都市王制が発達したと説いたが、その理論の特徴は支配形態の比較にある。井上光貞氏(1917年~1983年、日本古代史学者)はウエーバーの方法から学んでいる。

文化人類学の国家論
l  新進化主義と呼ばれた学者たち(E.サーヴィス、M.サーリンズなど)は、人類社会の進化をバンド社会(≒血縁社会)、部族社会、首長制社会、原初国家の四段階に分けて説明した。エンゲルス達が氏族社会と国家を対立的に厚かったのに対して、両者の移行期を重視して首長社会を設けたことが特徴。
l  首長社会の内容は多様なので、H.クラッセンらは、首長制の次の段階(原初国家)に、次ぎに定義される社会段階を持つ初期国家を置いた。この定義には学ぶべき点がある。
     階層社会を基礎として
     階層社会を生むほどの多くの人口を擁し
     恒常的余剰を持ち
     血縁ではなく地縁原理が支配的で
     社会の分裂を回避しうる強制力のある政府を持ち
     中央政府があり支配の正当性を支える共同イデオロギーをもつ

国家形成の契機
l  以上の国家形成論の主張はそれぞれ異なるが、いずれも社会の進化や発展の段階を区分する理論。一方、国家形成の契機、きっかけをめぐっても様々な考えがある。以下に列記すると
Ø  エンゲルスは階級対立を重視したが、灌漑事業のような社会を統合する機能も視野にあった
Ø  K.ウイットフォーゲル(1896年~1990年、ドイツ生まれのアメリカの中国研究者)は、灌漑事業のような社会を統合する機能という側面を重視して『東洋的社会の理論』を著し、アジアでは共同労働の組織化を基礎としての専制国家が生まれると主張した
Ø  征服王朝説もある。遊牧民族による国家形成などによく適用される。江上波夫氏(1906年~2002年、考古学者)は日本の騎馬民族征服王朝説を唱えた
Ø  戦争が契機という説もある。R.カーネイロは、人口増大などを契機として資源が不足することで戦争が激化して支配組織が出来ると説いた[38]
Ø  G.チャイルド[39]は、国家の成立における都市の重要性を取り上げ、古代都市の形成に遠隔地との長距離交易が重要な役割を果たすことを説いた。著者は、ここからヒントを得て、国家形成において物資流通の掌握が重要な契機の一つとなることを提案した

国家はいつからか
l  七~八世紀に成立した律令国家を古代国家として捉えるのには問題がない。しかし、古代国家の始まりをいつからと捉えるかには、三世紀説、五世紀説、七世紀説、と諸説がある[40]。著者はこれを753節と呼んでいる。四世紀後半説もある。
l  五世紀を画期とする見方
Ø  古墳時代と弥生時代のあいだの時代変化よりも、五世紀後半の方が時代変化が大きいと捉えて、古墳時代を一つにまとめるのではなくて、五世紀後半までを首長制の時代で、古墳時代後期から初期国家とする考え方がある(和田晴吾氏)。この考え方のポイントは下記の三点。
     「王の支配が直接的に家長層にまで及ぶ」こと
     「首長層の在地支配が弱体化」すること
     「首長層が官人化し始める」こと
著者は、この考え方の②と③については賛成だが①については批判的。つまり、①の有力な根拠として父系イデオロギーの流入を掲げているがそれは今後の研究課題であり、またもしそうであったとしたら既に成熟国家なので初期国家と国家の質的区別がなくなる、と。
Ø  「初期国家」段階には「成熟国家」の指標である身分制・租税徴収・徭役労働徴発・官僚機構・常備軍が、萌芽的でも良いから出現していなければならない、と考えて、五世紀とする説がある(岩永省三氏)。著者は、成熟国家の指標がすべて揃わなくても(実体があれば)初期国家と考えて、古墳時代にはすでに初期国家は存在していると考えている。岩永氏の説との対比で記述すると下記のようになる。
     身分制は、古墳の形と規模の差
     租税制は、弥生時代後期の首長居館の倉庫や三世紀末の首長居館の倉庫
     徭役労働は、古墳や首長居館そのもの
     官僚機構は、卑弥呼が行った魏や公孫氏との外交に必要な外交文書作成、貢ぎ物の調達や収納整理、税の徴収や収納という行為
     常備軍は、この存在については不明だが、三世紀の王墓から出土する甲や整備された武器、また、『魏志倭人伝』の記述「宮室・楼観・城柵・おごそかに設け、つねに人あり、兵を持して守衛す」からは、親衛隊の萌芽が覗える

磐井の乱をどう見るか
l  五世紀には権力の量としては中央に大きく移ったが、一人一人の人間を掌握するという質を伴った変革は律令国家の出現を待たねばならなかった。磐井の乱の結末がそのことを象徴的に示している。

初期国家は三世紀から
l  著者は古墳時代の初めを初期国家の誕生と考えている。その理由をまとめると下記となる(≒前述したクラッセンの条件)
Ø  巨大な古墳と土壙墓の差異は階層社会の存在を示している
Ø  階層社会があること自体が人口の量の多さを示している
Ø  租税の蓄えとしか理解できない巨大な倉庫が恒常的余剰を示している
Ø  徴税は強制力を持つ中央政府が存在を示している
Ø  共同イデオロギーは前方後円墳祭式である

「地域国家」は存在したか
l  地域国家が三世紀から始まるという説がある。この考えは統治領域が現在の日本国の領域に近くなる時期を国家成立と同一視する安易な統一国家論への継承とはなるが、地域勢力として存在した筑紫、吉備、出雲、毛野、いずれも独立性に欠けるから国家とは言えない。
Ø  先ずは、軍事的にも経済的にも威信財という統治の手段としても重要な資源である鉄の供給ルートを中央政権に依存しているから独立性があるとは言えない。
Ø  古墳形式と関連祭祀の進展から、吉備に独立性があるように見えても前方後円墳体制の実際は大和政権の傘下にあったので、独自の共通イデオロギーの保持という点からも独立性があるとは言えない。

四世紀後半を画期とする説
l  弥生時代終末期から四世紀にかけて、墓の周りに並べられていた土器の形状が変化していることの観察から、族長権の継承祭祀が行われていた事を推測し、次ぎに、四世紀中頃からはこの権威継承儀礼が形骸したと判断し、このことなどにより実力によって王が出現するようになったと推測して、この時点で初期国家成立の契機とすると言う考えがある(田中琢氏)。確かに実力者が権力を持つこと自体は時代の画期ではあるが、これをもって国家成立の画期とするのは著者の考えとは異なる。

初期国家と成熟国家との違い
l  著者は、初期国家と成熟国家との、最も大きな違いを土地の所有にあると考えている。日本においては、律令国家の「公地公民」制がそれに該当する。

2 民族形成と国家
共通の仲間意識と国家
l  邪馬台国から前方後円墳体制の古墳時代へと権力集中が進み、初期国家が形成された。この初期国家における中央権力の拡大と共に文化的な共通性が形成されてきた。
Ø  「われわれ仲間」という帰属意識を持つ集団が徐々に形成された
Ø  共通意識は、まず王や地方首長などの支配層のあいだに生まれた
²  倭王武の478年に宋に提出した上表文で、倭人集団を仲間と考え、辺境と区別している、など
Ø  首長の間での仲間意識の広がり
²  『日本書紀』の継体紀には、磐井の乱の鎮圧に派遣された近江毛野臣に対して磐井が「(毛野臣は今でこそ使者となっているが、俺とは昔は仲間として肩やや肘をすり合わせ、同じ釜の飯を食った仲だ)と言ったと書かれている。
Ø  共通語の形成も進んだと考えられる
²  弥生文化の伝来と共に、朝鮮南部の言語が北九州から近畿に広まり、弥生文化の当方への拡大に伴って東までに広まり、奈良時代の言語に似た原始日本語日本語が成立した(大野晋氏)

必要物資の威信財の流通
l  仲間意識の形成には、流通網が整備され物資が流通することが決定的に重要
Ø  五世紀の倭人社会においては、鉄原料の鉄鋌や陶邑窯でやかれた須恵器など、生活必需品が同じ製品として流通していた
Ø  首長の権威のシンボルとして重要な威信財も広く流通していた。それは王から配下に下賜された品で、三角縁神獣鏡、石製品、装飾太刀、装飾馬具などがある。
Ø  威信財は、倭国王の権力の背後に有力な後ろ盾や同盟者があることを誇示する物でも有った。魏王朝か受け取った銅鏡、百済や加耶の王から受け取った太刀や馬具など。また石製品のの原形である貝輪には南海産の貝が使用され、遠く南海の地域とも交流があることを内外に誇示するシンボルとして流通した。

民衆レベルの生活様式に共通性
l  古墳時代、東北から九州南部の範囲まで、生活様式の共通化は民衆レベルまで及んでいた(考古学資料からのみからの考察)。
     石器に代わり鉄器が、農具工具の刃先、武器などのすべての分野に行き渡っていた
     竪穴式住居の平面形や構造が画一的となった。正方形プランに四本の柱で屋根を支える構造
     カマドが普及した。カマドは五世紀に朝鮮半島からの渡来人によって伝えられたが、六世紀代には岩手県南部から宮崎県中部まで伝播した。旧石器時代から使われてきた炉に代わったカマドは、熱効率が高く設置制限が緩和されないので(炉は炎が出るから、家の中央にしか置けない)、画期的であった。
     銘々茶碗とでもいうような個人別食器としての土器が普及した。西日本では弥生時代後期から普及したが、古墳時代になると西日本から東日本まで普及した。食器にみるこの風習の変化は中国や朝鮮の食事様式の影響と考えられる。
     農業祭祀と住居内のカマドの火の神の祭祀でも共通性が現れる。
²  滑石を加工して刀子や玉の形をした祭器を作ってする儀式が青森県から鹿児島県まで一般農民の間で広がった
²  須恵器を使った祭祀も有力農民の間に広く行われた
²  弥生時代においては地域で異なっていた銅鐸、銅矛、平形銅剣、中細形銅剣、有角石器の祭器も全国を通して銅鏡となった
²  畿内に限られていた筒型銅器、石釧などの祭器も全国一律にみられるようになった
l  考古学資料だけではなく、『古事記』、『日本書紀』、『風土記』[41]などを参考にすれば、古墳時代に形成された宗教、芸能、言語の共通性が更に明らかになるだろう。

北海道と琉球諸島
l  古墳時代、本州の大部分と四国と九州は、必要物資と威信財の流通圏に入っていた。それによって流通圏内での生活様式の共通性が形成された。生活様式の広がりと前方後円墳の分布圏とはピッタリと一致する。北海道と琉球諸島とは、これとは別の道を歩んだ。前方後円墳は分布せず、鉄や須恵器などの必需物資の流通圏にも入らず、その後の数世紀は狩猟経済を続け、生活様式も宗教も本州諸島とは別のグループを形成した。
l  琉球諸島では貝塚時代を経て、十二,三世紀から十四,五世紀にグスク[42]時代を迎える。どのグスクからも、多くの輸入陶磁器(中国産が多いが朝鮮、ベトナム、タイ、日本産もある)や生活用品が出土する。この時代は貿易の利権と領土拡大をめぐり領主達が争った国家胎動期で、沖縄本島は北山、中山、南山の三勢力が並立する三山時代となり、十五世紀前半の琉球王国の段階で国家が成立する(安里進氏)
l  北海道では弥生文化は上陸せず、まず続縄文文化の時代が始まる。この文化はサハリン、南千島にまで広がっていて、漁労、採取、狩猟を行っていた。
Ø  縄文土器の特徴を強く残した多様な土器、石鏃、石錐、石斧などの石器、後代の鉄器が出土し、住居は中央に炉が置かれた竪穴式であった。
Ø  続縄文文化の各地との交流の歴史は、今後の解明されなければならない点が多いが、有珠モシリ遺跡の埋葬では奄美諸島以南を生息地とするイモガイの貝殻が見つかっている。
l  続縄文文化の後の八世紀頃に擦文文化が起こる。工具でこすった土師器[43]の特徴からこの名前がついた。この文化は古墳文化と続縄文文化の両方影響を受けており、十三世紀まで続く
Ø  石器は殆ど出土せず、鉄製の鍬先、斧、鎌がゆきわたっていて、大麦、アワ、ソバの種子の存在とも併せて初期農耕の可能性がある。
l  擦文文化と並行して、オホーツク文化が存在した。この文化は北海道オホーツク海沿岸、サハリン南部、南千島に展開していた。この文化の担い手はアイヌの祖先と推定されている。石器や骨角器の他、鉄製の刀、矛、刀子[44]、斧等を使用していた。
l  北海道では、十三世紀に近世アイヌの時代に入るが、和人との戦いに敗れて国家の段階にまで成長する道を絶たれた。和人との二度の大きな戦い(十五世紀のコシャマインの戦い、十七世紀のシャクシャインの戦い)は、アイヌ社会では緩やかな政治連合が形成されていたことを示している。

古墳時代の六地帯区分
l  古墳時代の日本列島は文化的共通性を基礎に、六つの地帯に区分することが出来る。すると、民族形成の始まりを奈良時代の律令国家の成立期に置くといういままでの一般的考えよりも、それは既に古墳時代に始まっていたと捉えるべきである。
Ø  第一地帯は九州北部から関東までで、ここは西と東に分けられる
²  古墳時代初期に前方後円墳体制となった地域
²  西部は弥生時代に渡来人集団がいち早く定着し、水稲栽培を始めた先進地域
Ø  第二地帯は九州南部と東北南部
²  前方後円墳はここまで広がった(最盛期の五世紀)
Ø  第三地帯は東北北部・北海道と琉球諸島
Ø  第一地帯と第二地帯を合わせた範囲が民族形成の初期の広がりを示している

日本人の形成
l  民族形成の問題は日本人の形成の問題とも密接に関係する。遺伝形質や古人骨DNA解析による研究、言語学による研究はいままで述べてきた考古学の知見とおおよそ一致する。
Ø  日本人は縄文時代の南方系モンゴロイドと弥生時代以降の北方系モンゴロイドが混血した人々(埴原和郎氏他)
Ø  縄文時代には日本全土にアジア系集団に属する縄文人が住んでいたが、弥生時代以降大陸から集団が渡来して西日本の住民に影響を与え、周辺に及んでいったが、北海道と南島ではその影響は殆どなく、各々縄文的形質を残しながら進化して現在のアイヌ人や琉球人になった(藤本強氏、分子人類学もこの説を支持している)。
Ø  縄文人の言語はオーストロネシア語に属すると推定し(崎山理氏)、この上に北アジアの言語がかさなって日本語が成立したという仮説(村山七郎氏)がある

終わりに
l  世界各地の墳丘墓あり方を比較すると、日本の古墳時代のような異なる墳丘形式の共存は極めて特異な現象である[45]。初期国家成立時におけるこの現象は、現在の日本の国民性にまで深い影響を与えているのではないか、と著者は言う。
Ø  更に、日本の初期国家では、都市が全面的には発達しなかったとか、首長や王の宮に住民を囲い込まなかったことも、ヨーロッパや中国とは異なっている
Ø  日本の古墳時代のユニークな社会体制が生まれた要因については、考古学の今後の課題になるだろう
l  考古学は物質を扱う学問なので、今後の自然科学の進歩によって同じ資料から異なった事実[46]が明らかになるかもしれない。弥生時代の始まりが(ついこのあいだ)500年も遡ったように



[1] 小生補足。AMS法は放射性同位体C14を用いた年代測定法だが、従来のベータ線量測定に代わり、質量分析法の原理を利用してC12C14の数量比を直接測定するので、少ない資料(従来法に比べて1/1000位の1mg程度)と短い時間で測定が出来る。1970位に実用化された。尚、放射性同位体炭素C14を用いた年代測定法とは、通常のC12と放射性同位体C14の数量比を測定することにより、生物由来の資料の年代を知る方法で、56万年くらい昔まで測定できる。C14は宇宙の核反応に由来する自然現象として地球上に一定量として存在し(正確には時代や場所などの条件で少し変わるので補正が必要)、ベータ線を放射して崩壊し窒素となる(半減期5730年)。生物は炭化水素化合物で構成される有機体なので、炭素が含まれる。C14は生物が生きている間は代謝によってその比率は変わらないが死ぬと代謝しなくなるからC14の崩壊分だけ比率が変化する。質量分析法の原理は、重い玉C14と軽い玉C12を一緒に投げれば、落ちる場所が違ってくるようなもの。

[2] 「漢書」は紀元前の前漢にについて書かれた本で、弥生時代の日本列島についての記述があるが、この本が完成したのは紀元後82年頃
[3] 「後漢書」は「魏志倭人伝」より後に作られたもの。桓・霊の間とは、後漢の桓帝と霊帝の統治の間なので147年から189年となるから、この時期の倭国大乱。

[4] 卑弥呼の墓はまだ特定されていない。著者は、纒向遺跡の中にある古墳群の一つ、特に最大の古墳である箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性を支持している。この古墳は「古事記」「日本書紀」に記述されている第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として宮内庁が管理し、立ち入りを制限している。しかし20132月、日本考古学協会など15学会に対して初めて立ち入りを認め、2013/2/20に調査が行われた。立ち入りが許可されたのは墳丘の下段までで発掘などはできなかったそうだから、顕著な成果は得られていないのだろう。今後の進展が期待される
[5] 初めての派遣は魏志倭人伝によると238年だが239年が本当らしい
[6] 著者は「古墳」という言葉を、弥生時代の墳丘墓には用いず、三世紀前半に出現した巨大墳墓に用いているのは、それを物体の形状や大きさだけで区分しているのではなく、時代の画期を象徴として区分し、別名を付けているのだと思う。つまり、日本列島において古墳を作っていた共同体が、世界史の言葉で言えば初期国家であり、その時代を古墳時代と名付けているのだ。
[7] このせめぎ合い形についての具体例は記述がない
[8] 弥生時代後期の吉備で祭祀に用いられていた、特殊な文様や赤彩が施された大型の器台で、初期ヤマト王権の墓制の中に取り入れられて「埴輪」へと変化を遂げたと考えられている
[9] 三角縁神獣鏡の研究が重要なのは、弥生時代と古墳時代の画期を明らかにするものであり、換言すれば、この画期が日本列島における初期国家形成局面と考えているからだろう
[10] 全国にある古墳の数は161,560基(平成133月末 文化庁調べ)、wikipedia
[11] 中国の歴史書に記されている名前では、讃、珍、済、興、武。日本書紀記載の、履中、反正、允恭、安康、雄略、に当たると考えられている
[12] 卑弥呼の邪馬台国から150年近く経って起こり始めた
[13] 英雄神話の話題提供時代かも
[14] 朝鮮半島の勢力が倭政権内で力を得たのは、東アジア動乱を介して朝鮮半島との交流を深めた勢力が、渡来人の知識の価値を認めて重用したからだろう
[15] 宮内庁では、継体大王陵を近くにある「太田茶臼山古墳」としている

[16] 租税や賦役労働が始まる理由は、階層分化が始まったこと自体ではなく、その理由、つまり共同体を統治する必要性(それ以上であっても)にあったと考えるべきだろう
[17] この数値は小生の概算
[18] 吉野ヶ里遺跡は弥生時代中期前半なので、古墳時代の巨大倉庫運の時代よりも700年ほど昔となる
[19] 著者は、考古学の知見から、日本の古墳時代には、弥生時代には無かった階級社会があったと推定している(=古墳時代は欧米でいう初期国家であるという説を提唱している)
[20] 「日本」と呼ばれている国はまだ無いから、精密な表現としては誤り
[21] 古墳の系譜の研究からそう言えることが本書で既に説明されている。
[22] 群集墓は横穴式墳墓の構造をもっていることが条件なのだろう
[23] 石室通じる通路は、華やかで正式でみんなが見える場所ではない。これは、祭祀の意味と価値が相対的に減少したことを意味している
[24] ここで新納泉氏の説を紹介している意図は、上記の甘粕氏と小宮氏の考えと考古学的事実との整合性を示すことだろう
[25] 例外は奈良県橿原市見瀬丸山古墳(注:横穴式、欽明陵の説あり)
[26] 例えば大阪府磯長谷の伝用明陵や伝推古陵、蘇我馬子の墓の伝説がある奈良県石舞台古墳
[27] 人は、みんなが納得する「意味」を求めてしまうものなのだろう。
[28] 著者は、これも北魏文化から取り入れられた仏教文化の現れであると言いたいのだろう。
[29] 律令は中国の唐から得られた法規で、律は刑法、令は国家体制を規定する法。持統による飛鳥浄御原令(689年)から始まり、大宝律令(701年)と平城遷都(710年)のころ日本という名の律令国家が出来上がったと言われている
[30] 戸籍を作り、良民と賤民を区分して、良民には口分田を与えたなど
[31] 中央政権的機構を持ち、中央には一般政務を統括する太政官と神々の祭祀を司る神祇官を、太政官の下に八省を置き、地方組織は国と郡と里を設定してそれぞれ国司、郡司、里長を置き、九州には対外交渉と地方支配の拠点として太宰府を置いた
[32] 口分田のもとの班田収授制、税制としての租庸調プラス国司と郡司による年六十日を限度とする労役負担など
[33] 小生補足:戸籍作成に基づく、地方豪族の軍事力とは別の国家による徴兵制
[34] Wikipediaから「中国・朝鮮半島・日本の王城都市に見られる都市プランで、南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路(坊)と東西の大路(条)を碁盤の目状に組み合わせた左右対称で方形の都市プランである」
[35] この言い方から、条坊制があったかどうかが都市の必要条件であると言う考え方が、このジャンルでは強力なのだろう。もう少し考えてみると、物理的形式ではなくて、人間の営みに重きを置いた考え方を採りたい著者の主張が見えてくる。この二つは対立するものではないと思うが、前者が人間の視点を欠いているとすれば、そこにおいて前者が誤りであり後者が正しいという対立は成立する
[36] 造営に数十年かかり、数十万の人々が暮らす場所=都市
[37] 小生注:1818年生まれのアメリカの人類学者で、同時代のマルクスやエンゲルスの大きな影響を与えた。レヴィ・ストロースも『親族の基本構造』の冒頭において、E.B.タイラーの文章を引いて、100年近く前に逝ったモルガンを偲んでいる
[38] Carneiro, R. L 本「A Theory of the Origin of the State. Science (1970)」か?
[39] 1892年~1957年、オーストラリア生まれイギリス育ち考古学者で、日本でも岩波新書での訳本『考古学とは何か(1969)』がある
[40] これについての著者の考えは、本書において既に随所で暗示されている
[41] 現存する風土記は写本として五つ残っているで、『出雲国風土記』がほぼ完全のほか、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損、ほかは逸文とされる。しかし、逸文の中にも奈良時代の風土記の記述であるか疑問なものもある
[42] グスクは領主が地域支配と領民保護のために築いた山城のようなもの
[43] 小生補足。土師器と須恵器は同じ素焼きの土器で似ているが、焼成温度が違う。前者は500700℃、後者は1200℃くらい。須恵器を作るには窯の密閉が必要で、構造体を持った登り窯で造られるため遺構が見つかるが、土師器の生産地の特定は難しい
[44] 多用途のナイフ
[45] 内容については本書の随所で述べられているから、ここでの説明は省略する
[46] 小生注記。新しい事実もあり得る

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